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【お通し】シア「いつもの奴」
空腹街。
それは、ニュールメルト城下町の一角を示す言葉だ。
百を超える料理屋が軒を連ねる空腹街は、城下町に住む人々や、他国から訪れた商人や旅人、冒険者達の空腹を存分に満たしてくれる。
客の入りは千差万別だが、何処のお店を覗いてみても、それなりに繁盛していた。
だが、それは決して不思議なことでは無い。それもそのはず、ニュールメルト城下町の空腹街は、腕自慢の料理人達が大陸中から集う場所だからだ。
ニュールメルト城下町は、食の町として名を馳せている。
遙か昔、此処とは異なる異世界より持ち運ばれてきた調理器具の類が、料理人の腕を鍛え、同時に食の質を格段に上げた。それ故、食を求める人々の間では、美味しい物を食したければ、空腹街へ行け。誰もが皆、口を揃えて言うようになった。
そんな中、空腹街の端に一つ、鍵の掛かった料理屋がある。その料理屋は、一年以上前に、野蛮な冒険者達に目を付けられてしまい、閉店へと追い込まれていた。
店の名は、今は無い。空腹街で腹を満たす人々が、店の名を気にすることも無い。
閑古鳥が鳴き、空腹街を去ることになったとしても、新たな料理屋が軒を構えるだけだ。
名も無き料理屋のメニューに興味を抱く奇特な人間は、何処にもいなかった。
そう、それなのに、
「ふうん、数年振りに入ってみたけれど、客入りは相変わらずね」
若い女性の声が、店内に音を響かせる。
席が一つ埋まり、銀の髪を背に垂らす女性が笑みを浮かべていた。
薄明りに包まれた店内に、用意された椅子は八つ。その全てがカウンター席だ。
「前にも聞いたけれど、メニューは無いの?」
小首を傾げ、女性が問い掛ける。調理場に立つ青年は、カウンター越しに深い息を吐いた。
青年の名は、ホルツ。名も無き料理屋の料理人だ。元日本人のホルツは、地球でも料理人だった。迷惑な客に目を付けられてしまい、命を落とすことになったが、運がいいのか悪いのか、異世界への転生を果たし、再び料理人として生きている。
メニュー表は、客席には置いていない。だからと言って、壁にも書かれていなかった。
確かに、料理を作る場所はある。
だが、メニューが一つも無いのは、空腹街では異例の事態と言えるだろう。
「シア、……だったか」
「ええ、正解。忘れていなかったみたいね」
記憶の引き出しから、ホルツは女性の名を思い出す。その記憶は、間違いでは無かった。
「申し訳無いが、メニューは無いんだ」
ホルツは、諦めにも似た表情で、言葉を返す。よく、言われることなのだ。
慣れた口振りでホルツが告げると、シアは肩を竦めてみせた。
「それじゃあ、貴方は何を作ってくれるの?」
不審な素振りを見せずに、シアは問い掛けた。
その言葉に、ホルツは思案する。と同時に、店の扉へと視線を向けた。
用心の為に、鍵は掛けていた。それなのに、シアはホルツの目を盗み、いつの間にか店内へと入り込み、席に着いていた。
ホルツは、昔を思い出す。地球で店を切り盛りしていた頃、得体の知れない客が訪れていたことを。そしてその客は、決まって同じ物を食べていた。
記憶の引き出しには、小さな女の子の姿も残っていた。得体の知れない客の腕にしがみ付き、女の子は涙目で鼻を啜りながら、席に着く。慣れない手付きで箸を握り締め、二人並んで腹を満たす光景が日常と化していた。そして、帰る頃には笑顔になっていた。
「僕も、いつもの奴で」
返事を聞くまで待たない。断られるはずが無い、とホルツは確信していた。
カウンター越しに腰掛け、ホルツと目を合わせるシアは、あの時の女の子だ。見間違えるはずは無い。シアの瞳は、楽しげに店内を観察している。事実、シアは心躍らせていた。
ホルツは、厨房の棚から鍋を取り出し、蛇口を捻って水を入れ始める。
元々、客を招き入れるつもりはなかったので、作る量は少な目だ。
包丁を手に、トウフとダイコン、シイタケを一口サイズに切り別ける。
鍋に火を掛け、中火に調整し、ダイコンとシイタケを鍋の中に加えた。
「わたしね、今日貴方に会えるまで、何度も此処に来たの」
出汁を入れ、沸騰を確認した後、ホルツは火を止める。
そして、鍋にミソを投入した。
お玉の上に載せたミソを湯に付け、崩し溶かす。
「それは悪かった」
足を運び、ホルツが此処に来るのは、店内を掃除する時だけだ。それ故、すれ違い続けていたのだろう。だが、二人はようやく再会することが出来た。まるで恋する乙女のように、シアは嬉しそうに頬を緩めている。その理由は、一つだけでは無い。
ホルツは、鍋の中にトウフを入れた。
形が崩れないように、ゆっくりと。
再度、火を掛ける。
弱火で二分、加熱していく。
食器棚からお椀を一つ。
カンソウワカメとネギを用意する。
炊飯器の中は空っぽだ。
元々、客を持て成すつもりは無かったのだから当然だ。
冷凍庫の引き出しを開け、小分けにしておいた一膳分のゴハンを掴み取る。
それをレンジに入れ、スイッチを入れた。
「炊き立ては、次の機会に頼む」
一連の動作を、シアはじっくりと眺めていた。
その視線を背に感じながら、ホルツは口を動かす。
タイマーが鳴り、レンジからゴハンを取り出す。
御椀にご飯を盛り、ミソシルにはカンソウワカメとネギを盛り付ける。
ツケモノと共に、シアの前に並べた。
「美味しそう」
「味は保証できないけどな」
そう言って、すぐにホルツは後悔した。
料理に保険を掛けるような台詞は、口にするべきではなかったと。
「食べてみれば分かるわ」
けれども、シアはくすりと笑う。
そして、ホルツの言葉を気にすることなく、箸を手に取った。
「いただきます」
白い粒。それを箸で摘まみ上げ、口元へと運ぶ。
咀嚼。小さく頷き、御椀を置く。
次に口をつけたのは、ミソシルだ。箸で具を掬い上げずに、先ずは汁を含む。
口内、そして舌で味わい、シアは目を瞑った。
ごくりと喉を鳴らし、次にトウフを箸で掴んだ。形が崩れることはなく、シアの口へと運ばれていく。その姿を、ホルツは見ていない。食べる姿を見られたくない客は多い。シアが当て嵌まるかは定かではないが、なるべく見ないようにするつもりであった。
音が響く。ツケモノを載せた小皿を動かす音だ。今回、ホルツが用意したツケモノは、タクワンだ。カリカリと音を立て、シアがタクワンを食べる。
それから、次の標的をゴハンへと戻すと、一口、二口と、シアはゴハンを頬張っていく。
「……ふう」
箸を止めずに、シアは黙々と食べ続ける。
五分足らずで、ホルツが用意した料理は、あっという間に姿形を無くす。
「ごちそうさまでした」
箸を置き、両手を合わせる。シアは、満足気な表情を浮かべたまま、その言葉を口にした。
「ねえ、感想は聞かないの?」
「……心の準備がまだ出来ていない」
昔から、シアはゴハンとミソシル、そしてツケモノを食べていた。
料理を食べるシアは、必ず笑顔になっていた。
それを知っていたから、ホルツは敢えて同じ物をシアに振る舞ったのだ。
いつまでも、このままではいられない。前に進む必要が、あるのかもしれない。
ホルツは、そう思った。しかし、それが不安を作り出したのも事実だ。
大したことでは無い、と装ってはいるが、ホルツの内心は緊張に包まれていた。
「何それ? ホルツって心配性ね」
だが、シアが笑う。不安を掻き消すかのような、幸せに満ちた顔を、シアは作り上げている。
その笑みが、ホルツには温かく思えた。そして、
「美味しかったわ」
ホルツは、シアの一言に救われるのであった。
※
空腹街。それは、ニュールメルト城下町の一角を示す言葉である。
百を超える料理屋が、城下町に住む人々や、他国の商人や旅人、冒険者や異世界人を持て成し、彼等の空腹を存分に満たす。
食通で無くとも、空腹街を知らぬ者はいない。
その端に、名も無き料理屋が一つ。
異世界人のホルツは、店内から暖簾を出す。
「これで良し、と」
一年振りに暖簾が掛かり、店構えを確認する。
ただ、その姿に、一年前とは異なる点があった。
「少し、斜めじゃない?」
「気のせいだな」
「えー、そうかしら?」
ホルツの傍らには、銀髪の女性が一人。
二人の口元は、確かに笑みを作り上げていた。
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