序 章 穏やかな日々

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序 章 穏やかな日々

 時は享保。徳川吉宗の時代。舞台は将軍のお膝元。  平穏な世であるはずなのに、そこには鉄の焼ける匂いが満ち満ちていた。夜であってもその匂いは消えない。  まるで、そこだけがまだ戦国時代かのように、時が戻っているような感すらある。そこはさまざまな武器を一から作っている偏屈な者達の集まる〝鍛冶屋町〟である。  暖かな春の日差しが降り注ぐ中、賑やかなそば屋に一人の男がやってくる。 「いつものをひとつ!」  と注文するのは、鍛冶屋幻鷲の(あるじ)幻鷲霊斬(げんしゅうれいざん)だ。背は六尺という長身で、歳は二十八。歌舞伎の二枚目か、若侍に見えるくらいには整った顔立ちで、客らの目を惹く。(かち)色の着物を着ている。 「はい! 空いている席にどうぞ!」  と元気に答えるのは、黄色の小袖を着て前掛けをしている、()()である。霊斬とは対照的に小柄で、歳は二十五。お盆を片手に客の間を器用に通りながら、奥へと引っ込んでいく。  空いているいつもの席に腰を下ろすと、常連客に声をかけられる。 「幻鷲さんは、いつもそば、頼むのかい?」 「ああ」  霊斬は短く答えた。 「おれは温かいそばだな」 「そうか。今度気が向いたら、食べてみるか」 「そうするといいぜ。美味いから」  常連客はにやりと笑うと、その場を離れた。 「お待たせしました! ご注文の品です」  千砂が言いながら、そばを机に置く。 「いただきます」  霊斬は言ってそばを食べ始めた。  その様子を見て、笑みを浮かべた千砂は、他の客の許へ早足で向かった。  霊斬がそばを食べ始めて、さほどかからずに平らげると、のんびりとお茶を飲む。 「いかがでした?」  千砂が器を片づけながら、尋ねてきた。 「いつも通り、美味かったぞ」 「ありがとうございます!」  嬉しそうに笑う千砂を見ながら、銭を置く。霊斬はそば屋を後にした。  霊斬は店に戻ると、商品を一瞥する。  入ってすぐの場所には装飾品を含めた数多くの商品が綺麗に並べられている。どれも一番の出来というのは、霊斬本人の談。  商品が並べられた向こう側は、客と話をする部屋になっている。右側には階段箪笥(だんす)があり、二階が寝床になっている。  左側にはひとつの部屋があり、霊斬は足を踏み入れた。霊斬はこの部屋のことを刀部屋と呼んでいる。  目を引くのは室内の壁際にある(はこ)(ふいご)。今は火が入っていない。その反対側には熱した刀を置くための水桶、隣には金箸が置かれている。  真ん中の空いた空間に腰を下ろし、右隣に置いていた抜き身の刀を手に取る。  鞘を抜き、刀身に視線を向ける。その横顔は真剣そのものだ。  砥石を取り出すと、静かに研ぎ始めた。  幾度か研いで出来栄えを確認すると、満足したのか、鞘に納める。  霊斬は伸びをして部屋を出た。
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