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千砂が帰った後、霊斬は左袖から、短刀を取り出す。
右手で弄びながら、考え込む。
――俺もまだ、怯えているのかもしれんな。……かつて人を殺め続けた過去に。
素手で女一人守ることなど造作もない。だが、この時代、平穏だとはいえ、いつ危険が迫るか知れない。
殴るだけで収まる相手ならいいが、大抵はそれで収まるとも思えない。祭りだからこそ、警戒は強いに越した方がいい。祭りに気をとられているうちに、目に見えぬ闇が暗躍していることも十分に考えられる。〝楽しむ〟という感情を斬り捨て、どこか他人事のように感じるようになった霊斬だからこそ、そう言ったことにまで心を砕けるのだ。それは悲しいことかもしれないが、当の本人はそんなふうに感じることすらない。
霊斬は大きく溜息を吐くと、短刀を弄んでいた手を止めて、湯屋へと向かった。
翌朝、日が昇るころ、千砂が霊斬の店の前にやってきた。
しばらくすると、昨日と同じ恰好をした霊斬が、姿を見せる。
千砂をまじまじと見つめた霊斬は、ふっと笑う。
「……似合うじゃないか」
この日の千砂の恰好は、黄色い小袖ではなく、大きな紅葉が目を引く落ち着いた色合いの小袖だった。
その変化に目敏く気づいた霊斬の言葉に、千砂は内心で喜びながらも、平然を装った。
「ありがと」
千砂はそれだけ口にすると、押し黙った。
「さて、いくか」
霊斬の言葉にうなずくと、千砂は後に続いた。
大通りに向かうや、大勢の人が立ち並ぶ店の前に並んでいた。
遠くからお囃子の音が聞こえてくる。
「そろそろか」
霊斬は、背の高さを生かし、街の南側を見つめて言った。
「なにが、そろそろなんだい?」
千砂は必死に背伸びをするも、人の壁に阻まれ、その先の光景を見ることができない。
「こっちだ」
霊斬はそう言うと、大通りのさらに北、人のいない場所へと連れていく。
人が多いところから離れているが、千砂はそれを口にせず、ついていった。
お茶屋の前で立ち止まり、店の前に出ていた椅子に腰かけた霊斬は、手招きをした。
千砂も椅子に座ると、南側からお囃子の音とごろごろという音が聞こえてくる。
視線を向けると、二本の綱を大勢の人がつかみ、舞台を引っ張っている。それも老若男女問わず。子どももいた。さすがに舞台の近くには若い男衆がいる。
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