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ただ、正寅は『悪魔に心を売らず、悪魔と手を繋ぐ』という方法を、直属の上司である桜庭班長に叩き込まれてきた。それはもう、子どもっぽい小ずるい方法から、高度な心理戦に至るまで、彼女の指導は容赦なかった。が、おかげで何とか今も悪魔に心を売らずに生き延びている。
緑川は元々の正義感や使命感も感じつつ、大臣に恩を売ることにも熱心で、どうやら桜庭と似たところがあるらしい。ただし、桜庭の方がきっと上手い。
正寅は大臣の息子だという棚岡に声をかけた。
正寅の辺りを配慮するような態度に、棚岡は何かを察してそっとやってきた。
「父……ですか」
棚岡は苦い顔で小声で聞いてきた。話が早くて助かる。正寅よりも少し若いぐらいの年に見えたが、実際には少し年上の40歳だった。
「そうです。大臣が日本に戻るようにと」
「嫌だって言ったら、御崎さんが困ります?」
「別に僕はどちらでも。嶋田さんが武器を持っているようなので、脅してでも連れて行くかもというぐらいです」
「まぁね、海外ならやりたい放題だろうな」
棚岡は落ち着いていて、少し考える素振りをした。きっと父親の理不尽な強権発動には慣れているのだと思われる。
「僕は戻らない方がいいと思うんです。僕は彼と公私に渡るパートナーシップを結んでいます。頭の硬い父が知ったら卒倒しちゃいますし、まだ日本じゃ政治家としてもスキャンダルになるでしょう?」
棚岡は大げさに息をついた。
「大臣はご存じないんですか?」
「そういう話はしました。でもまともに聞いてくれなかったし、認めてもくれなかった。激怒してつまらない話はやめろって切り捨てられました」
「日本もここ数年でけっこう変わりましたよ。事実婚とか同性婚でも、普通の……って言うと怒られますね、いわゆる異性婚と同じ権利を行使できるようになってきました」
「いやぁ……そういう問題でもないんだよね。家族だし政治家だし」
「でも、融資は受けてますよね。大臣の後ろ盾があるから、おそらく事業の再建も早いと思います。その御礼に、ちょこっと日本に帰国するぐらいは、いいんじゃないですか?」
「そうだ」
正寅がビクッとして振り向くと、斜め後ろに棚岡のパートナーである杉田が立っていた。
「ちょっと顔を出して、また戻ってくればいい。棚岡さんにはずっと支援してもらってるんだから、ちょっとぐらい親孝行したらいい。こっちは俺が片付けておくから」
杉田は腰に手を当て、棚岡をじっと見た。
「どちらかというと、大臣が棚岡さんを利用する可能性だってあると思います。息子が性的マイノリティであることは、いまや恥ではありません。どちらかというと、理解ある親を演じられる、天がくれためちゃくちゃいいカードです」
正寅が言うと、棚岡は苦笑いした。
「空気が盛り上がってるときは、そうかもね。でも不安定な空気に乗る気はないね」
正寅は小さくうなずいた。その気持ちもわかる。人ってのは常に不安定だ。
「それに、日本に行って、こっちに戻れないようになっても困る」
棚岡はそう言って話を終わらせようとした。
正寅は何も言えなかった。緑川に頼まれただけで、遂行できなければ誰かを殺すと脅されたわけではない。支援したら田中誠太郎のことを調べてやると言われただけ。
「今、大きな事業が進んでて、タケルもちょっとピリピリしてるんですよね。実際、タケルの親に支援も受けてるから、仲良くしてほしいんだけど」
杉田が言って、正寅は息をついた。
ホテルスタッフがバスが来たと英語で呼ぶ声がした。
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