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「父さん、朝ごはん置いとくから。帰りは俺が弁当買ってくるよ」
食器を流しで手早く洗い、キッチン周りを一気に拭き上げる。
店で働くようになって二年。こういうのも随分と早くなったものだ。
「水筒、忘れないでよ」
「俺の事は良いから、仕事に行け」
相変わらずのぶっきらぼうな口調に、玄関に置いていたリュックを背負う俺の頬もほころぶ。
昨年の春から、会社で何度か具合が悪くなっていたようだ。
以前、喫茶店で桜木さんと美雨さんの絵を描いている時に感じたスマホの振動は、父の具合が悪くなったという知らせだったらしい。
父はそのことを話さなかったので、結局あの電話が何だったのか知らないまま、ある日掛かって来た電話で父さんが病院に運ばれた事を聞かされた。
病院に向かうと、既に手術が行われた後だった。
「俺はもう現場に立つことも無いし、熱中症も何もないだろ」
「何言ってんだよ。夏場なんてそうも言ってられないよ。室内でも脱水にはなるし、きちんと飲まないと」
「ったく。まさかまた実家暮らしとはな。いつまでここに住む気だ」
まだトレーナー姿のままの父さんが、靴を履く俺を見下ろす。
「まだ当分。何も決めてないよ」
「いい歳して――」
「はいはい。じゃあ近いうちに探すよ。この辺りで。じゃあね、行ってきます」
ふん、と鼻を鳴らし、くるりと俺に背を向けて居間のガラス戸を開けた。
「父さん」
「なんだ」
まだ何かあるのか、と振り返る父さんに、一呼吸おいて尋ねた。
「母さんは、俺を産んだことを後悔してるのかな」
「そうかもしれないな」
やっぱりか、と立ち上がった俺を見て、父さんは「でも」と続けた。
「俺は敦士がいてくれて良かったと思う。それじゃあ駄目か」
聞いたくせに、答えを言う前に背を向けてしまう。
「ははっ、そんな事ないよ。ありがとう」
「気を付けてな」
居間に入った父さんの影が、ガラス越しに座ったのを確認してから、靴を履いて玄関ドアに手を掛けた。
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