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まだ開店時間前。翼さんならともかく、お客さんまで連れてきてしまった。
シンさんは困るだろうか。
額に滲んだ汗をタオルハンカチで拭き、シャツの首元を摘まんでぱたぱたとはためかせながら、重い木製扉を開いた。
カランコロン カラン
「あれ。お祖父ちゃん、いないじゃん。二階かな」
カーテンは開けられていた。
ベルベットの重厚な紅いカーテンにはきちんと金のタッセルが巻かれ、夏の朝の木漏れ日が、埃ひとつ無いテーブルに小さな陽だまりを落とす。
空気の入れ替えのためキッチンの出窓も開けられ、店内はパッヘルベルのカノンが優しい音色を奏でていた。
「鷹取、そこの流しの横。置き手紙じゃね?」
桜木さんがカウンターに身を乗り出しながら、キッチンを指さした。
「あぁ、本当ですね」
少し上で休ませてもらいます。
お店の準備はいつもの通り。
もしお客さんが来たら、君のやり方で出迎えてください。
君なら大丈夫。僕は全てを教えたから。
もしよければ、翼にも手伝わせてやってくれ。
あの子は、今の大学を出たらこの店を手伝いたいそうなんだ。
急で申し訳ないけれど、宜しくね。
メモは丁寧で大きさの揃った、シンさんらしい文字で綴られていた。
「翼さん、この店を継ぐんですか」
「もうっ、お祖父ちゃんそんな事書いてたの? うわ、本当だ」
キッチンに入って来た翼さんが、メモを覗き見て肩をすくめた。
「この店は敦士君が継ぐんでしょ。だからあたしはお手伝い。あたしがマスターは無理だもん。正直、ほっとしたよね。お金の事とか難しいのわかんないし」
「ぶはっ、翼ちゃんっぽいね」
噴き出した桜木さんが、カウンター席に座った。
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