第一話 空色のクリームソーダ

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「ただいま」 誰もいない家の中は、しんと静まり返り、窓を開けると蝉の声がどっとなだれこんだ。    俺が早朝に出勤したあと、父さんが仕事に出る。 男ふたりの家なのもあり、日頃から気を付けているだけあって部屋は片付いている。 急いでいたのだろう。いつもならきちんと水切りラックに立てられている湯呑を手早く洗って片付けた。  シャワーを浴び、ドライヤーで再び前髪の生え際に滲んだ汗を湿ったタオルで拭い取る。 二階の四畳半の自室にある窓辺のローテーブルに、珈琲とスケッチブックと水彩色鉛筆のセット。 洗い物ついでに水を補充してきた水筆と陶器の梅型パレットを用意し、使い込んですっかり薄くなった座布団に腰を下ろした。 描きたい風景はもう頭に入っている。   まずは色鉛筆で描いていく。 桂の樹の下で会った女の人。 彼女の横顔は寂し気で、だけど優しくて。 化粧気の薄い、透き通るようなマットな肌。 淡いベージュのワンピースの裾から覗く、線の細い足。 彼女自身の柔和な雰囲気を、スケッチブックに丁寧に落とし込んでいく。   陽光を透かした桂の葉から零れる、柔らかな光の粒子が降り注ぐ風景。 そこまで描き、持っていたレモンイエローの色鉛筆を三六色のケースに戻した。 すっかり氷が溶けた珈琲のグラスに口をつける。 白いテーブルの上に、結露の水の輪ができていた。   再び色鉛筆を持ち、ちょうど女性の顔に持っていこうとして、空中で手が止まる。  駄目だ。描けない。   長く細い繊細なまつ毛と、オレンジ色の薄い唇。 覚えていないわけじゃないのに描けないのだ。 画用紙の上の彼女の横顔は、のっぺらぼうのまま。  話しかけたら迷惑だろうか。 彼女の笑った顔や、話す顔を見てみたい。 淡く抱いた欲は、絵の中の彼女を見ていると、ふつふつと小さな泡から次第に大きくなっていくのを感じる。
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