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やっぱり辞めたくなかった。
桜木さんは、俺が辞めたことを聞いてどう思うだろう。そう思ったが、慌てて頭を振った。
こんなの今まで何度もあったじゃないか。
空には羊の背中みたいな丸い雲が並んでゆったり漂っていた。
後ろ髪を引かれるように、大通りに出てからもう一度振り返る。
事務所に戻る上田さんの後姿は、ちょうど駐車場に入って来たトラックで見えなくなった。
停車したトラックの影に、あの女が立っていた。
眩しくて表情までは読めないが、体をこちらに向けたまま動かない。
女に背を向けて一気に走り出す。
大通りを渡り、商店街を抜け、遠くに山々を望む開けた畑沿いの道に出る。
どうして自分にはあんなものが見えるんだ。
幽霊なんて、誰も信じてくれない。
だからいつだって、俺は嘘つきだ。
幽霊なんて、誰だって不気味で怖い。
だから、俺と関わると「呪われる」
だから、だから――
足を止め、ゆっくり、ゆっくり息を吸って、吐いて。
額に滲んだ大粒の汗を手首で拭って振り返った。
女は追いかけて来ていなかった。
空は突き抜けるように青く、どっしりと沸き立つ雲が鎮座し、町中で蝉が大合唱している。
わあわあと喚き叫ぶ蝉が、まるで独り佇む俺を嘲笑うかのように聞こえた。
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