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「いい加減に……してくれっ」
うつ伏せから体を返し、肘をついて後ずさる。
天使像の台座に後頭部を打ち付け、背中を丸めて身悶えた。
「消えた、か?」
肩で息をしながら呼吸を整える。
走ってきた道に目を凝らすが、もうあの女の姿はどこにも見当たらなかった。
「大丈夫かい」
「え――」
腰を抜かしたまま振り返ると、スーツ姿の男性がいた。
「立てる?」
差し伸べられた手を握るべきか否か。
「だ、大丈夫です」
その手は握り返さず、なんとか自分で立ち上がって尻をはたく。
逃げ出しそうになって、我に返った。
「その。ありがとう……ございます」
鳶色の瞳のスーツ姿の男性は、俺でも軽く見上げるほど背が高く、黒々とした髪はきちんとビジネス用にセットされていて、背筋も定規を差したように伸びている。
「いえ、僕は何も」
隅々まで整えられた身なりから受ける印象をよそに、とても穏やかでゆとりのある口調は、警戒心を一掃するには十分過ぎるものだった。
「大した怪我は無さそうだね、良かった。怖かっただろう」
怖かっただろうって?彼にもあの女が見えていたのだろうか。
もしかして、あの女は生きている人間だったのか?
いや、それはない。そうだとしたら、その方が怖いかもしれない。
「しばらくこの公園にいた方が良い。散歩するでも良いし、昼寝でも良い。この先にある喫茶店でも良いんじゃないかな」
「は、はい。僕もよくそこに行くので……」
すると男性は「そうか」と目じりに笑い皺を作る。
「それは良い。珈琲でも飲んでおいで。じゃあね」
男性は三又に分かれた道の右側、茂みの傍にある丸太の階段を上り、池へと続く鬱蒼とした坂道へ歩いていく。
よかったら一緒に。
普通の人ならそう言えただろうか。
言いかけた言葉は喉の奥でつかえたまま、行き場を失くしてしまった。
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