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散光1-⑸
「人の名前かな。なんだか穏やかじゃなさそうだが、主は何て答えたんだい?」
「知らないな、の一点張りですよ。そしたら「ちょっと来い」と言って客の男が仕事中の主を屋台の外に連れだしてしまったんです」
「へえ、そりゃ困ったことになったな」
「空の屋台で気もそぞろに蕎麦を啜っていた僕は、とうとうこらえ切れなくなって消えた二人の様子を探りに行ったんです」
「二人はいたのかい?」
「暗くてはっきりとは見えませんでしたが、言い争う声と「うっ」という呻き声がしたので駆け付けました。すると裾をまくって駆けてゆく後ろ姿と、頭を押さえて地面に倒れ込んでいる蕎麦屋の主が見えたんです」
「むう、そいつはいけないな」
宗吉の話が穏やかならぬ方向に進みつつあることに気づいた流介は、思わず身を乗り出した。
「僕は逃げた男のことより主の容体が気になり、誰か力を貸してくれそうな人を探し始めました。幸い、近くを通りがかった人が医者を呼んでくれることになり、僕は主に「安心して下さい、もうすぐ医者が来ます」と声をかけました」
流介はほっとしつつ、はてこの話はどういう形に落ち着くのだろうと首を捻った。
「僕はこれ以上できることはないと思い、医者が来たら一旦立ち去ろうと思いました。もちろん、蕎麦の代金を置いてです。すると主が急に目を開け僕に「あんた、すまないがこれを『ゴメダユウ』と言う女に渡してくれないか」と言ってた小さな筒を差し出しんです」
「筒?」
「ええ。しかも『ゴメダユウ』なんて初めて聞く名です。怪我人と押し問答するわけにもいかないので受け取りましたが、内心じゃ質問攻めにしたい気持ちで一杯でした」
「随分と無茶な頼みだね、それは。大事に至らなければ丁重に断って返したほうがいいと思うな」
「実は、そのつもりで翌日屋台のあった通りを訪ねてみたんです」
「で、うまく主と会えたのかい?それとも思いのほか傷が深くて伏せっていたとか」
「それが……その辺の人に片っ端から蕎麦屋のことを聞いてみたんですが、どうも石か何かで頭を強く打ったらしく前の晩に亡くなっていたと言うのです」
「なんと……では断ることもできずじまいか」
「はい……それで途方にくれて、たまたま届け物があって布由さんの所を訪ねた折につい、その話をしてしまったんです」
「君も相変わらず粗忽だな。呆れられただろう」
「お察しの通りです。まず夜鷹が何かを聞かれたので、説明しました」
「その時点でもう迂闊だろう宗吉君、蕎麦の話だけにしておけばいい物を」
「はあ、その通りで。布由さんからいつもの口調で「衛生の点からもあまりよい商売とは思えません」となぜか僕がお説教をされました」
「そりゃあ彼女ならそう言うだろう。衛生は布由さんが最も深く関心を持っている分野だ」
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