1 アグリーダックの帰還

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1 アグリーダックの帰還

 香りの記憶だけが、残っている。甘くてそして少し苦い、青い時代の香りの記憶だ。  バスを降りると、涼やかな風が頬に当たった。じんわり汗が滲み始めた肌に心地よい。首の後ろに当たる日差しは、もうすっかり初夏のものになっている。  こうして昼間の太陽を身体いっぱいに浴び、全身で季節の変化を感じることが出来るのも、退職したおかげだ。心身ともになんとも清々しい。  大学に入学して以来、高島俊吾は故郷に帰ることは無かった。  学生の頃は、医学部の授業とバイトの両立で忙しすぎた。卒業して医師として働き始めてからは、言わずもがなの状況だ。特に研修医時代の生活は、子どもの頃から続けてきた剣道で鍛えた心身を持ってしても、正直キツかった。  どれだけキツくとも、俊吾は医師という仕事が好きだ。自分に合っていると思っている。人間の生死にかかわることは、当然に辛いことも多いが、一方で患者やその家族が喜ぶ顔も人一倍見てきたつもりだ。  日々の症例を重ね、経験を積み、実際に手ごたえも感じている。特に最近まで勤めていた大病院では、尊敬する上司の下で切磋琢磨し合う同僚にも恵まれ、充実した日々を過ごしてきた。  だがその生活も3月いっぱいでキリを付けた。しばらくは県の中心部にある病院に勤務しながら臨床を覚え、いずれは実家の隣町にある小さな診療所を引継ぐことになっている。
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