1 貧乏令嬢の誘拐

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1 貧乏令嬢の誘拐

 走馬灯ってもっと、人生が映画みたいに流れるものだと思ってた。 「セリナ・フォスター嬢、悪く思うなよ。これも依頼なんでな」  しっくりくるその名前はこの十八年、私が使っていた名前だ。こんな偶然あるだろうか。私は“前も”セリナだった。今も、全然違う場所で全然違う顔でセリナとして生きている。まぁ、今はちょっと命の危機に瀕しているけれど。  死ぬ、と思った。目の前には私の何倍もありそうな巨漢の男がいて、端に追い詰められている。見知らぬ住宅街の見知らぬ路地裏にある所狭しと干したシーツがバタバタとはためく見知らぬ建物の屋上。全体的に鈍色の空気が漂う薄汚くて、ドブ臭い、いわゆる貧民街だ。明日は我が身。私が産まれた時は裕福だったのに今や傾くだけ傾いている我が家だっていつ潰れてこの路地のお世話になるか判らない。  でもその前に死んでしまいそうだ。このまま何もしなければ死ぬだろうという直感と、絶対に嫌なんですけど、という拒絶が走馬灯を見せた。見せすぎて“前のセリナ”の時まで遡りすぎてしまったようだけど。でも残念ながら走馬灯の中に私が生き延びることに直結しそうな情報はない。前も貧乏だったという悲しい事実を思い出しただけだった。  もうこれ以上は後退りできない。屋上は転落防止にかけるお金なんてないのか、これ以上行けば地面まで真っ逆さまだ。正確に測る余裕はないけれど私が駆け上がってきた階段は多分、四階分くらい。こんな貧民街でも土地代は高いのか、僅かな土地に上へ上へと伸ばしていくしかないのだろう。何だか、“前のセリナ”の時によく見た光景だなと思った。そんなビルに入っている会社にばかり履歴書を送っては書類選考で落とされて。そりゃそうだろう。貧乏神が服を着ているような娘を採る会社、あるはずない。  でも今の私は刃物職人から成り上がった商家の娘で、昔々に買ってもらったドレスを後生大事に着ている。そろそろ外面も保てなくなってきた貧乏だけれど……あれ、今回私、貧乏神なんじゃ。この貧乏は見ている人には判る。でも後生大事に着ているドレスでそうは見えない人もいるかもしれない。だから思いもよらなかった。私を、誘拐しようとする人がいるなんて。 「こ、こないで!」  強がったつもりの声は震えていた。相手は今は武器を持っていないけれど、巨漢だ。私みたいな小娘なんてひと捻りだと思っているだろう。実際、ひと捻りだし。出かけた私を捕まえて無理矢理に馬車でこんなところまで連れてきて、降りる時に暴れた私を脅すためにナイフを出したこの男は、私が自分で結った髪をざっくりいった。あ、いや、ごめ、と狼狽えた様子からは脅すだけで髪を切るつもりはなかったのかもしれないけれど、こちらはいきなり命の危機に瀕していきなりショートヘアになったのだ。怯えもする。 「まぁまぁまぁ、落ち着け。もう投げるもんもないだろ。それ以上行ったら落ちるぜ。お前を傷つけたら報酬が減るんだ。何もしない。ちょっと部屋に閉じ込めておくだけだ」  何が何もしないだ。そんなわけない。このスースーする首筋がそれを裏付けている。  私は周りを見渡したけれど投げられそうなものはあらかた投げた後だった。籠や衣類は投げたせいで男の向こうに転がっていた。ひらひらとシーツが風に持っていかれるのが見える。割れた植木鉢もいくつか転がっていて、他にも投げたはずだけれど男を通り越してあえなく場外へ離脱していったのか見当たらない。一番武器になりそうなものだったのに考えなしに投げて失ってしまったのは痛い。  屋上の出入り口はひとつだけだ。男の向こうに開いたままの出入り口がある。でもどう回り込んでいこうと無理があった。男も私が唯一の出入り口を狙っているのは判っているだろうし、私がどう動こうと出入り口を守るように動くだろう。勝ち筋が見えない。詰んだ。 「何もしないなんて、そんなこと信じられるわけないでしょう! 私の髪を切り刻んでおきながら! 報酬だって、本当に支払われるか──」  言ってから口を噤んだ。いけない。報酬がないなんて知ったら顔もばっちり見ている私をここで殺すかもしれない。そんなつもりはないとしても、どうせまた、あ、いや、ごめ、と言うに決まっている。うっかりで殺されてはたまったものではない。 「いや、報酬はある。前金だってもらってんだ。しくじったら残りの金がもらえねぇ」  男は眉根を寄せた。眉根を寄せたいのは私の方だ。前金を払って私を誘拐するよう依頼したとして、その資金の回収があるはずだ。即ち、身代金をあてがうつもりでいる。でもうちにはお金がない。傾くだけ傾いて、明日にも潰れるんじゃないかという状態なのに身代金なんて払えるわけがないのだ。お給金さえ払えなくなって使用人を雇うこともできない家に、娘が拐われたからと身代金を肩代わりしてくれるようなところ、あるはずがない。  そうなれば男の依頼主は私が邪魔になるだろう。今すぐはなくても、部屋に閉じ込めて報酬が払われないと知ればこの男だっていずれ私を殺す。少なくとも逃がしてくれるはずはない。 「助け……」  私は周囲を見回した。助けて。それか逃げる方法を教えて。派手にぶつかり物を倒しながら階段を駆け登ってきたのに人っ子ひとり様子を見にこない。そこらへんに人はいるのに、この光景が見えていないのだろうか。シーツが邪魔なのか? それとも見て見ぬふりをしているのか? まぁでもこの巨漢を前に立ち向かっていけるかというと私にはできない。助けてくれない人を恨んでも嘆いても、そんなものは何の足しにもならない。  そんなこと、“もっと前”から知っている。 「なぁ、お転婆ちゃん。逃げ足は速かったがここに逃げ込んだのが運の尽きだ。俺の気が変わらねぇうちに行くぞ」 「……っ」  痺れを切らしたのか男がドスの効いた声を出した。情けないことに私の体は恐怖にすくんでしまう。いや仕方ない。こんな怖い目になんて遭ったことがないんだから。これに怯まない度胸なんて持っていない。 「──ねぇ、おねーさん。助けてあげよーか?」  耳元で少年のような声が聞こえて、うひゃぁ、という更に情けない声が出た。だだだだってここ、屋上なのに。後ろはもう逃げ場のない空中で、進めば真っ逆さま。誰の声が聞こえるというのか。 「ねぇ、訊いてんだけど。聞こえなかった?」  声に苛立ちが滲んだ気がして私は慌てて口を開く。男の顔が驚愕に染まっていた。誰かいるのかもしれない。男に見えているならこの声も存在していて、私の幻聴ではないのだろう。  だから。 「た、助けて!」  大きな声で叫んだ。この土壇場でプライドとか持っていても死んだら意味がない。プライドは食べられないし。これだけ大きければ私の声を聞き逃すことはないのか、あはは、と楽しそうに笑う声が再び耳元で聞こえた。 「分かった。いーよ、契約ね」 「契約……?」  聞き捨てならない単語だったけれど、とん、と私の両肩を温かな手が掴むから飛び上がった。あはは、と声はまた楽しそうに笑う。おねーさん跳ねすぎ、と笑った声の主に手があることに私は何となく驚いてしまったのだ。でもそりゃそうだ、声だけなわけはない。  よ、と私の肩を掴む手に力がこめられて、細い腕がぐるりと後ろから肩を包む。上半身を抱き締められているような格好で、視界の隅をさらりと黒髪が流れるのが見えた。 「だって、ゼノ。聞こえた?」  声が、前方へ問いかける。私はその声を追うように視線を男へ向けた。男の目の焦点は合っておらず、口から泡を吹いている。ひ、と私の口からは悲鳴が出た。 「問題ない、サム。もう終わった」  シーツが、はためいていた。その間から馬の尾のような黒髪が紛れているのが見える。シーツを邪魔そうに剥ぐ手が現れ、巨漢の男の陰から細身の少年が姿を見せた。巨漢の男はどうと膝をついて頽れ、ばたりと倒れる。その背は赤く染まっていた。 「あはは、その肉に刺さったんだ? ゼノすげー」  耳元で少年が楽しそうに笑う。なに、と私は思う。なに、死んだの、あの男。殺したの? あの子が? 「別にどれだけ肉が厚かろうとその下にある臓器の場所は同じだ。構造は変わらない」  巨漢の後ろから現れた少年は表情を変えないまま答えた。手に持っているナイフには血がついていて、それを男の服で拭う。鞘に収めながら彼はこちらに歩いてきた。  まだ少年だった。大人びて見えるけれど十三、十四歳といった歳の頃に見え る。灰色に薄汚れた襤褸(ボロ)に等しい服はサイズが合っていなくてこの貧民街で生活していることが窺われた。長い黒髪は頭の天辺でひとつに結んでいて、髪質が細いのか風にそよいでいる。肌も汚れているけれど、何で汚れているのかよく判らない。この現場を目撃していなければ垢だと思っただろう。私をじっと見る目は明るい緑色なのにどこか(くら)い。それなのに、その目に吸い込まれそうな感覚を覚えた。 「改めまして、おねーさん。契約ありがとね。オレはサム、こっちがゼノ」  私の肩を抱いていた両手の熱が離れた。た、と私の横から軽やかに少年のところへ進んだ足は同じようにサイズがあっていない、穴の空いたブーツだ。薄汚れたシャツに、ブカブカの上着。ツギハギだらけのハンチング帽を被っている。サムと名乗った少年はゼノのように髪を伸ばしてはいないらしい。けれど。  同じ明るい緑の目に、顔は瓜二つだ。 「オレたち、“死神”なんて呼ばれてるけどただのか弱い美少年だから。優しくしてね」  あは、とサムは楽しそうに笑って目を細めた。
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