"今日"という日 に想いを馳せる

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"今日"という日 に想いを馳せる

さっそく歩いてきましたよ。 私はただいま絶賛転職活動中のニートなので、みなさんが齷齪と働いている中、川沿い歩いてきました。 平日だからか人は少なかったし、昨日雨が降ったこともあり、よくいる何かわからない小さいハエみたいなのが飛んでもなかったからすごく歩きやすかった。ウォーキング終わりに二郎系ラーメン食べて、食後にカフェオレ飲んで、タバコを吸って全てを台無しにしてやった(二郎系は昨日から食べたいと思ってはいた)。 そんな1日にひどく満足している私ですが、 現在17時(これが投稿されるのは20時だろう)にして、もう特にすることがないのである。 羨ましいだの働けだの僕も同じだの、人によって様々な意見があると思うが、これは幸せなのか不幸なのか? 確かに時間が有り余ってるということは、 自由に使える時間があるとも考えられるが、 何もタスクがない、そもそもしたいことは今日やりきっている訳だからこの時間は私にとってすごく無駄であり、不要な時間ではないのか。 つまり、8時に起き、9時に朝食を取り、10時からウォーキングに行き、13時過ぎに帰ってきて、14時前に昼食を取り、15時に洗濯物を取り込み、16時に読書をして、今現在17時、 ということは私の1日は睡眠の6時間を含めて、"15時間"程度でいい気がしてきた(実際はこのあとプロ野球を見なきゃいけないので、あと2,3時間は欲しいところ)。 実際、人間の活動時間は24時間のうち約16時間ほどである(8時に起きて、24時に寝るとして)が、だとしてもそんなにいらない私の1日はなんとコスパがよいものか。 しかし、だからといって今日5月7日はどう頑張っても0:00〜23:59の24時間なのだ。短くもならないし、長くもならない。そうなってくると私の1日の過ごし方は勿体無いし、不足しているようにも感じてくる。 今日という日は今日しかなく、猫型ロボットが完成するその日まで今日に戻ることなどできないのだから、今日という日を噛み締めて生きなきゃいけないと思ったところで、 ここで一つの疑問が思い浮かぶ。 「一体何のためにそんなことをしなきゃいけないのか?」 もちろんは時間は有限だし、私たちの人生も限りあるものである。 が、生きるのは私で、私が満足していれば時間が余ろうが何してようがいいのではないか? 最近はありがたいことに、NetflixだのアマプラだのYouTubeだの、その"不要な"時間を潰す方法がたくさんある。 何をどれだけこなしたかより、 いかに満足できたかを重視したい。 そんな風に私は 『"今日"という日に想いを馳せる』
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