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兄はテシェル入りしてから、丸3日、全く連絡がつかなかった。
桜庭や災害派遣に詳しい夫の久寿、兄の同僚などに聞いた話では、最初の72時間というのは災害救助にとっては最も緊急性の高い期間のため、たぶんほぼ不眠不休じゃないかということだった。
そうでなくても、御崎正寅というのは目の前で助けを求められれば、全力で答えてしまうのだ。琴葉もそうやって助けられてきた。
だから長らくの間、兄が御崎家と血の繋がりがなく、特別養子縁組された子だということを表明できなかったのだ。兄が御崎家に対して、感じなくてもいい恩を感じて、これまで以上に尽くしそうだったから怖くて、と母は言ったし、琴葉もそう思う。
テシェルの震災の被害状況が今日もニュースで流れている。砂だらけの倒壊ビルから助け出される幼い子供、水がない、食べ物が足りない、薬がないと訴える人々。余震に怯えて泣く、あるいは呆然と立ち尽くす人。
琴葉のスマホが揺れ、通知が入った。
『起きた』
とだけのメッセージ。
マサっぽい。琴葉は苦笑いして、返信を素早く打った。
『話、できる? ちょっと込み入った話で』
するとしばらく無言だったが、隙間を縫ったのか着信が入った。
「込み入ったって何、早速離婚とか言うなよ」
正寅はつながると少し不安そうにいきなり言った。
「あほ、そんなんちゃうわ。どっちかっていうたら、マサの話や。マサと、田中さんの」
「先生、起きた?」
正寅は声を弾ませた。琴葉はそれにちょっとムッとする。
「寝てる。あんな、マサも田中さんも、純日本人やないんよ」
琴葉が言うと、テシェルの兄はしばらく無言だった。寝ぼけているのかもしれない。
「マサ、起きてる?」
「えぇ?」
起きてた。琴葉はほっとした。
「今、ちょっと揺れた。まだ余震がけっこうあって……」
「え、大丈夫?」
琴葉は焦った。こんな会話してる場合じゃないのかもしれない。
「ん、震度4ぐらいやから、まぁ、大丈夫。え、あれ、さっき何て?」
「あ、マサも田中さんも、純粋な日本人じゃなかった」
「へっ」
正寅は軽く笑った。琴葉はそれをどう理解したらいいかわからず、黙っていた。ショックなときも人は笑うし、信じてないときも笑う。
「へぇ? 琴葉は?」
「え、私?」
「てか、純粋な日本人って何よ」
兄は砂の国でケラケラと笑っている。
琴葉は、ふむ、と思った。確かに、純粋な日本人て何だろう。遺伝子レベルで言うと、どうなんの? そして兄が軽く笑うから、琴葉もそんな気がしてくる。
「いや、私は遺伝子検査してへんもん。マサと田中さんは、母方のおじいちゃんかおばあちゃんか、その上のひいおじいちゃんか、ひいおばあちゃんに、北アジアから中央アジアの人がいるんだって。おじいちゃんかおばあちゃんだったら、その人の家族も複数混じってたのかもしれなくて、北アジアか中央アジアっていうと広いんだけど、ちょうど一番濃い可能性があるってエリアが、今マサがいる辺りなんよね」
「テシェル?」
正寅の声が興奮して大きくなり、琴葉はアレ?と思った。やっぱり兄に伝えるのは早すぎたのでは…。
「マジか。すげぇな、これって神様が狙ってたんじゃねぇの?」
嬉しそうだ。
「マサ、落ち着いて。だからって、そこらへんを聞いて回っても、マサのこととか田中さんのこととか、誰も知らんからね。わかってる?」
「うん、わかってる、わかってる。いや、でも面白いなと思って。え、ってことは、テシェル辺りから移民とか移住とかで日本に行ったご先祖がおるってことやんな?」
「あ、そう。マサ、そういうこと」
「あのさ、琴葉、俺が父さんに捕まったとこ…古畑らへんとか、あと先生が暮らしてた辺りに、外国人が移住してきてる場所とかないかな。そういうとこがあったら、何かわかるかもしれん」
「ほんまや」
琴葉は目を丸くした。とにかく外国人の血が入っているかもしれないということだけに興奮して、そういう考えには至らなかった。兄にとっては、そんなことはどうでもいいみたいだった。たぶん、30を過ぎてから初めて自分が養子だったと知ったので、そのときに一生分のショックを受け、それ以来、あまりいろんなことに驚かなくなっているのだ。
災害救助隊員としては、そのせいで優秀だと思われているみたいだが、家族としては、もうちょっと驚いてほしいときもある。例えば、自分がちょっとでも外国人の血が流れているとわかったときぐらいは。
「琴葉、余裕があったら調べてくれん? ああ、桜庭に漏らしてみよかな。あの人、面白がって何も言わんでも調べてくれるかもしれん」
「優子ちゃん? 優子ちゃんはもう知っとるよ」
「なんで俺より先に知っとるねん」
そう言って兄はゲラゲラと笑った。ちょっとおかしい。
琴葉は兄のテンションに首をかしげた。
「マサ、疲れてる? 寝れてる?」
「いや、まぁ、多少は……琴葉、俺、もうちょいこっちに居らんとやけど、たぶんあと何日か……2、3日したら本隊来るし入れ違いで帰れるから」
「うん」
「帰国便、決まったら連絡するわ」
「うん、マサ、ちゃんと寝てな」
琴葉が心配して言うと、兄はまた笑った。
「わかっとる。寝るし食う。心配すんな。なぁ、俺にアレ送ってくれん?」
「アレ?」
「ユキチの写真」
琴葉はそれを聞いて微笑んだ。ユキチは母の飼っている白猫だった。今、恋人もいない兄にとって、ユキチが癒やしの一つらしい。
「オッケー」
「じゃぁ切るわ」
正寅はそう言って切った。琴葉は母に、兄はあと3日ほどで帰れるらしいことと、ユキチの写真で癒やされたいらしいということを連絡した。きっと母は兄が帰るまでの間、毎日おもしろ動画を撮って家族のグループメッセージに送りつけるに違いない。
琴葉はそのままネットで検索をした。
兄が言ったように、兄や田中が関連していた場所の近くに移民の多いエリアなんかがあるかどうか。田中が話したところによると、兄の両親は既に他界しているらしいが、知人がいないとは限らない。特にテシェルは親日家が多く、日本へも思ったより移民が来ているという。
そういったことをいろいろ調べていると、琴葉は兄がどうして田中の延命を願うのか、ちょっとだけわかる気がした。
兄は琴葉の兄だ。養子だろうが実子だろうが、琴葉にとっては変わることがない事実だ。それはきっと兄にとっても同じだろう。琴葉や母を家族じゃないとは思っていないはずだ。
ただ、兄は突然現れた異父兄である田中が、自分とは違って、苦労してきたことも、良い家族に巡り会えなかったことも知った。田中はだからといって兄を恨んだわけではない。ただ、田中は失った弟に巡り会えたら、感動的な再会があると思っていたのだろう。そのために田中は他人の身分を手に入れてでも、兄に尊敬される存在であろうとした。
しかし兄は田中を覚えていなかった。何しろ琴葉の父に保護されたのが3歳と言われている。それ以前の記憶がほとんどなくても仕方なかった。一回りも上の田中とは違っていた。
田中にとってはショックだったのだろう。
それを兄はどうすることもできなかった。思い出せないなら、今からでも知る努力をしよう。兄、正寅はそういう人だった。だから仕事の合間に、趣味の岩石調査のついでに、各地に足を伸ばして自分と田中の過去を調べていた。
それでもわかったことは表面的なことでしかなかった。
田中にも、田中といた頃の兄にも戸籍がなかったからだ。
だから田中の素性も両親の名前も一応はわかったが、確証はなく、ましてや彼らが何を思い、どういう生活をしていたかはわからなかった。別にそれでもいいと琴葉は思う。だって今はもういないのだから。
でも兄が知りたいって言うなら、調べてやってもいい。
兄はお人好しで、家族愛が重くて、そんでもって石と災害救助が大好きなアホなので。
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