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 琴葉は『田中誠太朗』の病室の花瓶に新しい花を移し、いつものようにベッドサイドの椅子に腰掛けた。  病院の小さい個室のベッドには兄の異父兄が寝ている。もう1年以上昏睡状態だ。  兄、正寅の異父兄だが、琴葉と正寅も血がつながってないので、兄の異父兄とも血のつながりはない。つまり、全くの他人というわけだ。  ただ、病院スタッフはそんなこと気にしない。  暇があればやってくる琴葉に、医師も看護師も「いい妹さんねぇ」と言ってくれる。 「ねぇ、セイさん、マサは今日からイタリアだって。いいなぁ、イタリア。私も行きたい」  琴葉は眠ったままの田中誠太朗に言う。 「マサ、セイさんの延命のために、いろいろ無理してるみたいよ。イタリアもあんまり乗り気じゃなかったのにさ、セイさんの命の期限を伸ばすからって行かされてさ。頑張って英語喋ってるのかな。会議とか発表とか苦手なのにねぇ」  琴葉は手足を伸ばし、ちらりと田中を見た。  うーん、ホントに兄弟なのかな。マサとは全然似てないオトコマエなんだけど。  寝ている田中は色白で整った顔をしている。昏睡状態になる前は、髪も明るい茶色で、大学教授ということもあり、知的な空気を全身から醸し出していた。  兄、正寅はそんな田中を教授として尊敬していた。田中は初め、正体を隠して『鳥羽利伸』と名乗っていた。どうやら誰かの経歴を利用していたらしく、大学教授という厳密な資格があるわけではない職では、専門知識のある彼を長らく誰も疑わなかったようだ。  琴葉の父は岩石の研究者でもあり、岩石ハンターで、正寅のことも、どこかの山から拾ってきたという。兄はまだ3歳で、そんな小さい子が山奥でフラフラしていたら、誰でも保護しちゃうわよねと母も言っていたから、そうなんだろう。  でも、そのとき兄は田中と一緒に鉱物探しに来ていてはぐれただけだったらしい。田中は弟を奪われた形になった。  兄は父と一緒に石探しを楽しみながらスクスクと育ち、災害救助隊員になったあとも石を探しては珍しいものを発見して、その世界でじわじわ名を上げた。実績を上げすぎて一度、捏造疑惑を受けて炎上したが、おそらくそれもあって田中が兄に気づいたのだった。  田中は『鳥羽教授』として兄に近づいた。当然のように、兄は素直で単純なので、ウキウキと喜んで近づいて、まるで恋人みたいに慕っていた。田中は弟がいつか自分を思い出してくれるんじゃないかと期待していたみたいだが、結局は愚弟は何も思い出せず、逆ギレした。  田中は兄を鉱物の調査だとか何とか言って、洞窟に誘い出し、爆発物を仕掛けて崩落させた。災害救助隊員の兄が意外と優秀で、2人とも助かってしまったわけだが。  兄も満身創痍だったが、田中は自ら死を選ぼうとしていたこともあり、意識不明で救出された。そのまま意識が戻らず、もう1年が過ぎた。 「セイさん、そろそろ目を覚ましてくれないかな。マサを自由にしてやってほしいんだよね。マサ、あなたのこと、めちゃくちゃ好きだったんだよ。信頼してたし、誘われるとウキウキして、デートみたいに何着ていこうとか言ってさ。バカみたいだったよ」  琴葉は田中の長いまつ毛を見つめる。  しっかり閉じちゃってさ。 「殺されそうになったくせに、今も助けようとしてるのって、まだ好きなんだと思うんだよね。マサにそんなに愛されてさ、まだ不満なのかな。あの人、ちょっとおかしいから、大事な人には尽くしすぎちゃうんだよね。だからさ……もう、許してあげてくれない?」  何度も同じ話をしているが、田中から返事があったことはない。  当たり前だ。昏睡状態だ。  琴葉はため息をつき、持ってきていた水筒から、温かいハーブティをカップに注いで飲んだ。ほんわかする。  病室だけど、いつも静かで、小さな窓からのほんのりと明るい光が差すこの部屋は心地よい。 「ねぇ、セイさん。あの石だけど、どこにあったんだろ。そこが、マサとセイさんの大事な場所なんだよね。教えてよぉ。お願い。うわ言でいいからさ。日本地図ダーツでもいいから。絶対、西日本だと思うんだけどなぁ。違う?」  琴葉は、心当たりのある地域を、順番に口に出してみる。父と兄がよく行っていたところとか、父が生前、唯一出した本に書いていた土地だとか。  そして琴葉は、むすっと頬を膨らませる。 「そうだ、セイさん、ホントに謝ってよね。父さん、殺したのもセイさんなんだって? もう滅茶苦茶だよ。マサも情緒不安定になってたもん。そりゃそうだよ。当たり前。私は大嫌い。セイさんなんて、大嫌いだから。起きても喜ばないから」  琴葉はちょっとムッとして、田中の涼やかな寝顔を睨んだ。 「でも、マサは待ってる。だから早く起きて。わかった?」  琴葉は立ち上がり、そう宣言して病室を出た。
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