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9.幸せの輪郭
「……なんで」
二人だけになった休憩室には、コーヒーの香りが緩やかに回る。バーテーブルに置いた紙コップには湯気が薄く上っていた。
「なんでここにいるのかってことなら、百瀬が『津島さんがいじめられてます』って言ってきたからだけど」
ゆっくり首を振る。本当に聞きたいことはそれではない。俺が聞きたいのは、聞くべきことは――。
「なんで『別れよう』って言ったの?」
「……今さらだな」
「今さらだけど、今だから聞きたい」
「もう知る必要ないだろ」
「――俺のこと、不幸にすると思ったから?」
木崎の瞳が揺れたのを俺は見逃さない。逸らされた視線を声で引き戻す。
「だから、別れようって言ったの?」
自惚れでも何でもいい。木崎の答えが聞きたい。木崎の声で、言葉で知りたかった。
「……そうだな」
木崎が表情を緩ませる。降参、と言いたげに。視線がゆっくり窓へと向けられる。
「俺がいるのはそういうところだから」
「そういうって」
ブラインドは下ろされていない。春の景色はガラスの先に広がっている。
「三か月」
「え?」
「俺が三課にいられるのは三か月だけなんだ」
どういう意味、と尋ねるより早く、木崎が吐き出した息の中で笑う。
「三か月で結果なんて出せるわけないって思ってんだろうな」
誰が、とは言わない。けれど、結果を出させないよう、認めさせないよう動く誰かがいるということだ。一年足らずで勤務地を変わっていた理由。出向する前からファンゲームと話をつけていた理由。木崎はいつだって限られた時間で結果を残そうと闘っている。
「そんなところ――嫌だろ?」
朝陽は、ではない。誰だって、と言っている。そこには木崎自身も含まれている。
だから、あの朝、木崎は一度も「朝陽は?」と聞かなかったのだろうか。俺がどんな返事をしても答えを変えることはできないから。俺を連れていくわけにはいかないから。
でも、木崎はあの朝――。
「『…………何も、聞かないんだな』って言ったよな。あのとき俺が聞いてたら、何か変わってた?」
見えてしまった心をただ受け入れるのではなく。「どうして?」と聞いていたら。「俺は別れたくない」と伝えていたら。答えを変えることはできたのだろうか。未来は変わったのだろうか。
「さあ、どうかな」
もしも、の結果なんて誰にもわからない。それでも、木崎の表情が答えだと思った。懐かしさに滲む寂しさ。俺が見つけるべきだったもの。六年前の木崎は今よりずっと弱かったはずだ。俺が一言「別れたくない」と言ったら、揺れていたのではないかと想像できるくらいには。
だから、尋ねずにはいられなかった。
「木崎は――瞬は、今、幸せ?」
答えなんてわかりきっている。自ら不幸だと言う世界にいるのだ。それでも俺は瞬に言ってほしい。「幸せじゃない」と。俺と別れて「幸せじゃなかった」と。
「俺は、別れたくなんてなかったよ」
あさひ、と音にならない声が空気を震わす。
「でも、瞬が決めたなら仕方ないって、俺のこといらなくなったなら仕方ないって」
瞬が一緒にいたいと思わなくなったなら仕方ない。俺だけが想っていてもどうにもならない。だから諦めたふりで自分を誤魔化した。そうしないと寂しさに飲み込まれそうだった。立っていられなくなりそうだった。
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