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桜の開花情報が流れ始めた、三月中旬。
繁忙期とはいえ、金曜日なのでフロアに流れる空気はいつもより緩い。終業時刻まで残り五分。今日は残業なく帰れそうだと、適当にファイルを開く。早く終わらないかな。画面右下の数字を確かめながら意味もなくキーボードに触れる。と、電話が鳴った。
あと五分とはいえ、業務中には変わりない。ため息を隠して手を伸ばせば、わずかに早く隣の佐藤さんが受話器を上げた。
「――はい、いえ、それは」
女性らしい柔らかな声が固くなっていく。「申し訳ありません」と続いた言葉でトラブルの気配を察したのは、俺だけではない。佐藤さんを気にする視線が集まり、そのうちの何人かと軽く目が合う。
心配そうな表情の上、浮かんだ白い吹き出しに文字が並ぶ。
――関わりたくないな。
隣にはまた別の吹き出しが。
――こっちにふられませんように。
「大丈夫かな」という小さな声が聞こえ、顔を戻せば、正面に座る同僚の頭上には『うわ、かわいそう』と書いてあった。
「佐藤さん、何かトラブル?」
受話器が戻ったところで課長が声をかける。
「午前中に畑中さんが送った書類に不備があったらしくて」
現在時刻は午後五時五十八分。畑中先輩は時間有休で、すでに帰ったあと。残業で対応するしかない。誰が対応するのか。電話をとった佐藤さんに否は全くないが、受けてしまったのだから最後までやってほしいという空気が漂う。吹き出しを見るまでもなく伝わってくる。佐藤さん、断れないだろうな。
「そうか。悪いけど」
「僕、やりますよ」
佐藤さんの名前が呼ばれる前に手を上げた。課長も佐藤さんも、同じ課のみんなも振り返る。俺は目を合わせないよう、視線を流す。
「畑中さんの案件、手伝ったことあるので」
手伝ってやったんだけどな。とは言わず、笑顔を作る。畑中先輩に恩を売り、佐藤さんの好感度を上げ、課長の評価も上がる。残業代も手に入るのだから、定時で帰れなくなることより得だろう。
「じゃあ、悪いけど頼むな」
はい、と答えれば、課長の頭上には『津島さんがいてよかった』と浮かんでいる。
「本当にありがとうございます、津島さん」
「ちょうど手が空いていたので」
気にしないでください、と佐藤さんに笑顔を向ける。「頼りになる部下」「信頼できる同僚」みんなの求める津島朝陽ならこうするというだけだ。
問題の案件は三十分ほどで片付き、佐藤さんが抱えていた業務の手伝いもして、残業は一時間ですんだ。
「津島さん、ありがとうございました」
「いえ、早く終わってよかったですね」
ビルを出たところで冷たい風が吹き、体が縮む。隣へと顔を向ければ、きゅっと目を閉じていた佐藤さんがゆっくりと瞼を上げた。
――津島さんと帰れるなんてラッキーだな。
表情は仕事のときと変わらないのに。頭上の吹き出しには弾むように文字が並ぶ。
「佐藤さん」
「はい」
「よかったら、ご飯食べて帰りませんか」
佐藤さんがもう一度「はい」と小さく答える。頭上には『津島さんに誘ってもらえるなんて』と書いてあった。
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