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唐突に木崎の名前が出てきて、心臓が跳ねた。手元で黒い水面が揺れる。
「……なにが?」
「好きなひとです」
好きなひと、って誰の? 跳ねた心臓は鎮まることなく不穏に音を鳴らす。
「木崎課長は格好いいし、憧れるけど、でも、特定のひとは絶対に作らないって聞くし」
百瀬の腕の中、クッションが苦しそうに皺を寄せる。
「どうしてかなって気になって聞いたことあるんですけど、『不幸にするのわかってて、作るわけにいかないだろ』って笑って言われました」
不幸にする。その意味を考える前に、百瀬が視線を向けてくる。浮かんだ吹き出しが視界に入り込む。
――俺の方がずっといいのに。
真剣な眼差しに喉は詰まり、言葉を挟む隙を見つけられない。
「そんなひとわざわざ選ばなくてもいいじゃないかって、思って」
――ずっと想ってきたのに。どうして……。
泣き出す前のように顔を歪めた百瀬が、一息に吐き出す。
「だから木崎課長じゃないってわかってホッとしたけど。でも、相手が津島さんじゃ、敵うわけないじゃないですか」
聞こえた言葉の意味が理解できず、頭上へと視線を向ける。けれど、並んだ文字はますます俺を混乱させた。
――どうして、あかねちゃんは津島さんが好きなんだろう。
「……百瀬」
「はい」
「あかねちゃん、って誰?」
「え、だから、あかねちゃんです。総務の。佐藤あかねちゃん」
「佐藤、さん?」
「そうです」
どうしてここで佐藤さんの名前が出てくるのか。酔いはとっくに醒めているはずだが、理解がちっとも追いつかない。構わず百瀬は吐き出し続ける。
「ずっと好きだったんです。津島さんと会う前からずっと。あかねちゃんにとっては、弟みたいなものだと思うけど。ずっと好きで……それなのに会社では話しかけてくれなくて。四月になってからはこっちの島でもよく見かけるようになったから、自分から話しかけてみようって思ったのに……あかねちゃんはいつも自分じゃない誰かを探してて」
一度伏せられた瞼が、ゆっくり上がる。百瀬がまっすぐ俺を見る。
「津島さんは、あかねちゃんのこと、どう思ってるんですか」
百瀬はこれを聞くために来たのだろう。
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