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押し慣れた自動販売機のボタンに触れる。木崎に「コーヒー買ってきて」と言われ、百瀬と休憩室に来た。二人で、とわざわざ付け足したのは「休憩しろ」という意味だろう。
「あれ、津島じゃん」
「お疲れ様です」
ガラス扉を開いたのは総務の畑中先輩だった。百瀬も「お疲れ様です」と挨拶する。
「そっちも休日出勤なの?」
隣の自動販売機に立ち、振り向くことなく尋ねられる。
「もう解決しましたが、ちょっとトラブルがありまして」
「そうなんだ」
話を振ってきたわりに興味のなさそうな相槌だった。早くコーヒーできないかな。百瀬の手にある紙コップはまだひとつだ。
「津島、優秀だもんな」
そんな、と答えるより早く言葉が続く。
「詳しく説明しなくても理解できるし、言いたいこと汲み取るのが早いし、ほんと手のかからない後輩だったわ」
褒めてはいない。声に滲むのはそんな温かな感情ではない。吹き出しなんて見なくてもわかる。
「畑中さんの教え方がよかったからですよ」
ランプが灯るのと同時に扉を開け、百瀬に手渡せば、空気を読んだのか「先に戻りますね」と出ていく。
新しくセットされた紙コップにコーヒーはまだ落ちてこない。
「頭の中見られてるみたいで、気持ち悪かったけど」
わずかに変化した声。顔を向ければ、今日初めて目が合い、吹き出しが作られる。
――なんでお前なんだよ。
「まー、もしそんな能力あったら、三課に行ってたのは俺だったかもな」
明るく笑いを含ませた声だが、目は笑っていない。頭上には『俺が企画に行きたかったのに』と浮かんでいる。
「津島は企画、行きたかったの?」
射貫くような視線を向けられ、言葉が喉に詰まる。自分で望んだわけじゃなかった。企画に行きたいなんて思ったこともなかった。
「行きたくなかったのに選ばれちゃった?」
――どうして自分なのかと思った。経験はない。企画は通らない。取引先の信頼も得られない。ちっとも自分には合っていない。ずっと苦しいだけで、いいことなんてひとつもなかった。
「そんな苦しそうな顔するならさ、今からでも俺と変わる? 津島も総務に戻りたいんじゃない?」
総務に戻ったら、きっとこの苦しさからは逃れられる。周りの望む自分になれる。上手く立ち回れる。三課のみんなもそれを望んでいるのかもしれない。――でも、俺はもう「誰か」の望む自分でいたくない。
俺がいたいと思う場所は俺が決める。
「いえ、僕は」
「それはできないな」
声が重なると同時、風が流れてくる。木崎は注ぎ終わっていたコーヒーを取り出し、俺に手渡した。指先からじわりと熱が滲み込む。
「俺が津島を手放すつもりないから」
「津島のことすごく買ってるんですね。……もともと知り合いだった、とか?」
木崎が着任したのはこの四月で、俺以外は企画に関係のある部署から集められている。何か理由があると考えるのは自然なことだった。出身大学なんて調べればすぐにわかる。木崎は躊躇いなく「そうだけど」と答えた。
「なんだ、そういうことか」
畑中先輩が木崎ではなく、俺を見る。
「――ズルいな」
落とされた言葉に、吹き出しを見ることすらできない。重りを沈められたかのように体が動かなくなる。否定なんてできない。他人ができないことをできてしまう自分は――心が読めてしまう俺は、ずっと「ズル」をしている。ズルをして信頼をもらい、ズルをして関係を築き、ズルをして自分を作っている。
「ズルい、か。俺が会長の孫だっていうのもズルだと思う?」
「それは」
「能力、家柄、環境……『普通』じゃない、というのが『ズル』だとして、それだけで全部うまくいくとでも?」
木崎は表情を変えることなく、淡々と言葉を紡いでいく。
「特別な何かを持っていても、ただ持っているだけで特別になれるわけじゃない。今の俺があるのは、俺が動いた結果だし、今の君も、君が今までやってきた結果だろう。津島が今三課にいるのだって、俺と知り合いだったというだけじゃない」
「じゃあ、津島を選んだ理由は何ですか」
「津島ほど周りが見えるやつを俺は知らない」
表情も声も変わらないのに。木崎の言葉が、俺の内側に熱を広げ、重りを掬い取る。
「一緒に働いたことがある人間なら、知ってると思ったけど」
君は違うの? 落とされた言葉に、畑中先輩は何も答えなかった。
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