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週明け月曜日。終業時刻まであと一時間。
「少し休憩してきますね」
佐藤さんに断り、フロアを出る。朝から作り続けた笑顔の影響で頬が痛い。畑中先輩の頭上に浮かんだ『午後休にしておいてラッキーだったな』という文字が不快すぎた。自分にも吹き出しがあったなら『ふざけんじゃねー』と出ていただろう。
休憩室は予想通り誰もいなかった。迷うことなく自動販売機のボタンを押す。紙コップがセットされ、コーヒーの香りが流れる。半分下ろされたブラインドへと視線を向ければ、等間隔に植えられた街路樹が見下ろせた。
「桜、か」
ここからでは咲き始めているのかわからない。
「休憩中にすみません」
「佐藤さん……何かありましたか?」
珍しいな。適当に休憩を挟む自分とは違い、佐藤さんは昼休憩以外ほとんど席を立たない。
取り出した紙コップから熱が滲む。さすがに一気飲みはできない。
手近なバーテーブルへと促せば、佐藤さんのヒールが控えめに鳴る。視線を向けるが、微かに顔を下に向けていて、目が合わない。慌てた様子は見られないのでトラブルではないのだろう。
「あの」
パッと佐藤さんが顔を上げる。瞬間、白い吹き出しが頭上に浮かんだ。
――大丈夫。金曜日に誘ってもらったし。
「よかったら」
――自分から誘っても大丈夫なはず。
「今度、また……」
「佐藤さん」
吹き出しの文字を確認した俺は、緊張の滲む声をわざと遮る。佐藤さんの期待と不安を感じながら「同僚以上に思える相手」として、「もう少し近づきたい相手」として相応しい笑みを作る。
「もしよかったら」
「私がいなかったら、こうはならなかったんだからね。感謝してよ」
「してる。してる」
また食事でも、と続くはずの言葉は、廊下からの冷たい空気と話し声に掻き消された。
「木崎課長ねえ。実績だけ見れば部長でもいいのに」
「昇進しただけマシだろ」
「まあね。でも、どうせなら本社で……」
話しながら入ってきたのは二人。パンツスーツを着こなした髪の長い女性――人事の吉川部長と、仕立ての良い細身のスーツを着た長身の男性。
え、と思わず声にならない呟きが漏れる。
「お疲れ様です」
「……お疲れ様です」
佐藤さんよりわずかに遅れて挨拶を口にすれば、お疲れ様、と答えた吉川部長が「あ、津島さん」と俺の顔で視線をとめた。
「これ、君の上司になるから。よろしくね」
「――は、えっと、そう、なんですか?」
どういうことだ、という混乱を隠し、戸惑いの表情にとどめる。「上司」って言ったよな、今。そんなことあるか?
これ、と呼ばれた男は、こちらの混乱など素知らぬ顔で、小さく息を吐くだけ。端正な顔は無表情のまま、驚きさえ見せない。
「あとで課長から言われると思うけど。津島さんには新年度に新設される『企画三課』に行ってもらうことになったから」
社会人になって丸三年。異動があってもおかしくはない。でも、なんで企画? 総務と全然違うじゃないか。いや、それよりも。
「新設だからね。立ち上げには他にも本社組が来るけど。とりあえず直属の上司はこれだから。……ちょっと、自己紹介しなさいよ」
「あ、えっと、木崎瞬さん、ですよね」
俺が口にした名前に佐藤さんが反応し、吹き出しを浮かべる。
――木崎……木崎会長のお孫さん、かな。
「あら、知ってたのね。話が早くて助かるわ」
よーく知ってます、とは顔にも声にも出さず、表情筋の強度だけを上げる。
「木崎さんは有名ですから」
未だ無表情を保っている木崎に、最上級の笑顔を向ける。いい加減なんかしゃべれよ。
「津島です。よろしくお願いします」
「……ああ」
「よろしく」も「久しぶり」もない。初対面かのような態度。無事忘れられたってことか。俺だって思い出したりしてないけど。
「そろそろ戻りましょうか」
佐藤さんに言われ「そうですね」と答えてから、コーヒーがまったく減っていないことに気づく。湯気は見えない。蓋をしたところで温度は上がらない。一気飲みするか。
紙コップを掴もうとして、わずかに早く別の手に攫われた。え、と戸惑う間もなく紙コップは傾斜をつけていく。喉仏が上下するのをただ見つめることしかできない。コン、とテーブルに戻されれば、中身は空だった。
「……あんたねえ」
呆れ顔で見ている吉川部長の隣、木崎は無造作に口元を拭い、「ごちそうさま」と言った。切れ長の目がまっすぐ向けられる。
確かに目が合った。それなのに木崎の頭上には何も見えなかった。
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