1.途切れた春の先

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 週明け月曜日。終業時刻まであと一時間。 「少し休憩してきますね」  佐藤さんに断り、フロアを出る。朝から作り続けた笑顔の影響で頬が痛い。畑中先輩の頭上に浮かんだ『午後休にしておいてラッキーだったな』という文字が不快すぎた。自分にも吹き出しがあったなら『ふざけんじゃねー』と出ていただろう。  休憩室は予想通り誰もいなかった。迷うことなく自動販売機のボタンを押す。紙コップがセットされ、コーヒーの香りが流れる。半分下ろされたブラインドへと視線を向ければ、等間隔に植えられた街路樹が見下ろせた。 「桜、か」  ここからでは咲き始めているのかわからない。 「休憩中にすみません」 「佐藤さん……何かありましたか?」  珍しいな。適当に休憩を挟む自分とは違い、佐藤さんは昼休憩以外ほとんど席を立たない。  取り出した紙コップから熱が滲む。さすがに一気飲みはできない。  手近なバーテーブルへと促せば、佐藤さんのヒールが控えめに鳴る。視線を向けるが、微かに顔を下に向けていて、目が合わない。慌てた様子は見られないのでトラブルではないのだろう。 「あの」  パッと佐藤さんが顔を上げる。瞬間、白い吹き出しが頭上に浮かんだ。  ――大丈夫。金曜日に誘ってもらったし。 「よかったら」  ――自分から誘っても大丈夫なはず。 「今度、また……」 「佐藤さん」  吹き出しの文字を確認した俺は、緊張の滲む声をわざと遮る。佐藤さんの期待と不安を感じながら「同僚以上に思える相手」として、「もう少し近づきたい相手」として相応しい笑みを作る。 「もしよかったら」 「私がいなかったら、こうはならなかったんだからね。感謝してよ」 「してる。してる」  また食事でも、と続くはずの言葉は、廊下からの冷たい空気と話し声に掻き消された。 「木崎(きざき)課長ねえ。実績だけ見れば部長でもいいのに」 「昇進しただけマシだろ」 「まあね。でも、どうせなら本社で……」  話しながら入ってきたのは二人。パンツスーツを着こなした髪の長い女性――人事の吉川部長と、仕立ての良い細身のスーツを着た長身の男性。  え、と思わず声にならない呟きが漏れる。 「お疲れ様です」 「……お疲れ様です」  佐藤さんよりわずかに遅れて挨拶を口にすれば、お疲れ様、と答えた吉川部長が「あ、津島さん」と俺の顔で視線をとめた。 「これ、君の上司になるから。よろしくね」 「――は、えっと、そう、なんですか?」  どういうことだ、という混乱を隠し、戸惑いの表情にとどめる。「上司」って言ったよな、今。そんなことあるか?   これ、と呼ばれた男は、こちらの混乱など素知らぬ顔で、小さく息を吐くだけ。端正な顔は無表情のまま、驚きさえ見せない。 「あとで課長から言われると思うけど。津島さんには新年度に新設される『企画三課』に行ってもらうことになったから」  社会人になって丸三年。異動があってもおかしくはない。でも、なんで企画? 総務と全然違うじゃないか。いや、それよりも。 「新設だからね。立ち上げには他にも本社組が来るけど。とりあえず直属の上司はこれだから。……ちょっと、自己紹介しなさいよ」 「あ、えっと、木崎瞬(きざきしゅん)さん、ですよね」  俺が口にした名前に佐藤さんが反応し、吹き出しを浮かべる。  ――木崎……木崎会長のお孫さん、かな。 「あら、知ってたのね。話が早くて助かるわ」  よーく知ってます、とは顔にも声にも出さず、表情筋の強度だけを上げる。 「木崎さんは有名ですから」  未だ無表情を保っている木崎に、最上級の笑顔を向ける。いい加減なんかしゃべれよ。 「津島です。よろしくお願いします」 「……ああ」 「よろしく」も「久しぶり」もない。初対面かのような態度。無事忘れられたってことか。俺だって思い出したりしてないけど。 「そろそろ戻りましょうか」  佐藤さんに言われ「そうですね」と答えてから、コーヒーがまったく減っていないことに気づく。湯気は見えない。蓋をしたところで温度は上がらない。一気飲みするか。  紙コップを掴もうとして、わずかに早く別の手に攫われた。え、と戸惑う間もなく紙コップは傾斜をつけていく。喉仏が上下するのをただ見つめることしかできない。コン、とテーブルに戻されれば、中身は空だった。 「……あんたねえ」  呆れ顔で見ている吉川部長の隣、木崎は無造作に口元を拭い、「ごちそうさま」と言った。切れ長の目がまっすぐ向けられる。  確かに目が合った。それなのに木崎の頭上には何も見えなかった。
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