2.春の記憶

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 俺が木崎と出会ったのは、七年前。  大学入学から一か月経ち、桜の樹は緑色に覆われていた。午前の講義が終わり、向かったのは学食ではなく部室棟。映画研究サークルの部室に鍵はかかっていなかった。誰かいるのだろうか。大画面のテレビ、革張りのソファ、本やDVDの並ぶ棚。ぐるりと見渡すが、人影は見えない。鍵を締め忘れただけか。ホッと息をついた、そのとき。 「んー……」  突然聞こえた声にビクッと肩が跳ねた。  棚の影から誰かが這い出てくる。なんでそんなところに、という疑問には「ここ日当たり良くて気持ちいーんだよ」と欠伸交じりの言葉が答えをくれた。  棚と壁の間、ひと一人座れるほどの隙間に陽だまりができている。春とはいえ、まだ長袖が必要な気温だ。暖かい場所を求めてしまう気持ちはわからないでもない。でも、床で、しかも座って寝るか? 猫みたいだな。 「で、だれ?」  大きく伸びをしながら立ち上がると、自分よりも頭ひとつ背が高い。部屋着とも言えるラフな格好なのに不思議とダサくない。ふわりと柔らかな髪は肩に触れるか触れないかの長さで、切れ長の目が前髪の隙間から覗く。 「経済学部一年の津島です」 「下の名前は?」 「朝陽です」  間髪入れず尋ねられ、反射で答えてしまう。 「朝陽ね。俺は四年の木崎。新歓とかパスしちゃったから知らないよな」  こっちには名前を尋ねておいて、自分は名字だけかよ。と思わなくはなかったけど、柔らかな日差しの中で笑った顔が、なぜか泣き出す前のように見え、何も言えなくなった。  細められた瞳から視線を上に向ける。もうクセみたいなものだ。目が合ったら確かめずにはいられない。  ――キレイ、というか、可愛いな。  は? 並んだ文字を読み取った俺は、意味を理解するまでの数秒、固まる。 「ん? どした?」  緩く傾けられた顔。柔らかな眼差しに混じる温度。なんで、と言葉にはならず、視線を再び宙へ向ける。  ――すっげー好みなんだけど。一目惚れってあるんだな。  見てしまったことを後悔したが、もう遅い。 「具合でも悪い?」と、木崎が手を伸ばしてくる。距離を取るより先に指が触れ、自分でも驚くほど強く振り払っていた。 「っ、あ、……失礼しますっ」  振り返ることなく、部室を飛び出す。  騒ぐ心臓を抱えたまま階段を駆け下りる。  好意を向けられることには慣れているはずだった。見た目だけでなく、相手の望むように動けるのだからモテて当然。俺自身はアリかナシかを考えるだけでいい。主導権は常に自分にあって、距離を詰めるのも置くのも自分次第。  けれど、さっきはそれを考える暇も、笑顔で躱す余裕もなかった。木崎は「初対面の距離」というものが全くない相手だったのだ。 「なんなんだ、あいつ……」
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