2.春の記憶

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 悔しいことに、木崎と映画を観るのは楽しかった。待ち合わせの時点で『可愛い』と並んだ文字に戸惑ったが、『楽しい』や『嬉しいな』と明るい感想が並べば悪い気はしない。  距離が近いとか、もっと空気を読めとか思うことは色々あるし、そこが嫌いなのに、作るべき自分がわからないからか、わからないならいいやと開き直ってしまったからか、いつもより深く息が吸える気がした。「どう見られているか」を考えなくていい相手は、木崎が初めてだった。 「朝陽? 飲まないの?」  木崎と出かけるようになって一か月が経つ。映画を観終わった後は、お昼を食べる前でも後でも、必ずと言っていいほどカフェに寄る。感想言いたいじゃん、と木崎が言ったのが始まりだが、今では感想を話している時間の方が短い。  湯気の消えたカップへ、ため息を落とす。  木崎といると冷めるのが早い気がする。 「アイスコーヒーは好きだけど、冷めたコーヒーは好きじゃないんだよ」 「なら、初めからアイス頼めばいいじゃん」 「アイスよりホットが好きなの」 「へーえ」  木崎がストローを咥えたまま、おかしそうに笑う。 「そろそろ帰る?」  木崎の視線を追えば、ガラス越しに見える駅前の景色は夕陽に染まっていた。今日は午後二時からの回だったので、もう六時近い。  コーヒーはまだ三分の一ほど残っている。 「朝陽」  顔を上げれば「もーらい」と、カップを奪われた。冷めたコーヒーなんて美味しくないのに。一気飲みした木崎は笑って言う。 「ごちそうさま」  切れ長の目が三日月を描く。瞬間、きゅっと胸が鳴った。苦しさに似たこの感覚が「嫌い」でできていないことに、俺はもう気づいている。「ん?」と傾けられた顔に、「朝陽」と笑って呼ぶ声に、浮かんだ文句が一瞬で消えてしまう理由にも。それなのに。  ――また今度かな。  見えた文字にイラっとする。強引なくらい勝手に約束を取り付けるくせに、最後の一歩は踏み込まない。今度、今度って、いつになったら、こいつは……。 「朝陽?」  気づけば、立ち上がりかけた木崎の腕を掴んでいた。 「……えっと、ご飯食べて帰らない?」  掴まれた腕を振り払うことなく、木崎は少し考えるような表情を見せる。吹き出しを確かめたくても微妙に目が合わない。  木崎に想われている自信はある。断られるなんて思ってもない。けれど返事はなかなか聞こえず、不安が膨らみ始める。 「この後なにか用事あった? それなら別に無理しなくていいよ」  パッと手を離し、早口で告げる。カップとグラスを載せたトレイを持ち上げ、木崎の顔を見ないようにして返却口へ持っていく。  タイミングが悪かっただけだろう。今日は用事があるとか、日が悪いとか、そういうことだろう。お前が何も言わないから、こっちから誘ってやったのに。なんだよ。  トレイを片付け、出入り口へと向かえば、先に出ていた木崎が振り返る。 「朝陽」  カフェと外灯の明かりに挟まれ、木崎の顔がよく見えた。頭上の吹き出しも。 「ご飯、朝陽の部屋ならいいよ」  ご飯食べて帰らない? という問いの答えがどうして、俺の部屋なら、となるのか。返事として正しくないだろ。自分の部屋に誘わないで俺の部屋っていうのも図々しい。言葉はぐるぐる回るが声にはならない。見えてしまった文字が頭の大部分を占めていた。 「……俺、料理できないからな」 「いいよ、そんなの」  眉を寄せて答えれば、春の空気みたいな柔らかさで微笑まれる。甘さと落ち着かなさが一気に膨らみ、刻まれる鼓動はどんどんテンポを上げていく。 「とりあえず駅だな」  くるりと方向転換した木崎に、とても自然に手を取られる。冷たい、と思ったのは一瞬で、肌を伝わる温度はゆっくりと上がっていく。隣よりもわずかに後ろを歩きながら、視線を頭上に向けた。今はもう見えない言葉を反芻させ、きゅっと唇を噛む。  ――朝陽が好きだ。
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