2.春の記憶

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「顔緩んでるぞ」  追加の缶ビールとともに言ってやれば、木崎は「ありがと」と受け取りながらさらに頬を緩める。 「だって嬉しいもん」 「もん、って」 「初めてじゃん。部屋に呼んでくれたの」 「……呼んではない」  一人暮らしの部屋は狭い。ベッドとローテーブルの隙間に並んで座れば、触れていなくても相手の動きが伝わってくる。  ビールの空き缶、食べかけのピザにポテト。テーブルには、一人では見られない光景が広がる。だからだろうか。自分の部屋なのに、ちっとも落ち着かない。たった一人増えただけで空気が薄い気がする。  木崎は受け取った缶を開けずに、テーブルに置いた。乾いた音が部屋に響き、BGM代わりのテレビの音が遠くなる。 「朝陽」  耳が音を拾うよりも先、肌に触れた空気が揺れる。吐き出された息に混じるビールの香りと熱。ほんの少し顔を動かせば触れてしまう。見なくてもわかる。わかるから、動けない。両手に握り締めたままのコーラのペットボトルから水滴が滲む。 「いつもさ、俺が誘うばっかりだったからさ、嬉しかった」  うん、とも。そう、とも言えず。ただ静かに呼吸することしかできない。 「朝陽も、俺といたいって思ってくれたのかなって」  薄く開けている窓からは夜の匂いが流れ込み、冷たい風がカーテンを揺らす。「涼しい」と「寒い」の間みたいな温度。それなのにちっとも体温は下がらず、体の熱を強く意識させられる。 「朝陽」  木崎の指がうなじに触れ、体が小さく跳ねる。思わず顔を向ければ、視界が木崎の顔で埋まる。頭上なんて確かめる隙もない。熱を帯びた視線と柔らかな表情を向けられ、呼吸が止まった。 「好きだよ」  とっくに知っていた。ずっと気づいていた。「やっと言ったか」って笑ってやろうかとすら思っていた。それなのに。木崎の口から、木崎の声で伝えられて、喉が詰まった。  細められた瞳が距離を詰める言葉を待っている。うなじで遊ぶ指が力を込めるタイミングを窺っている。木崎の全部が俺の言葉を待っていた。言わなくてもわかるだろ、とか。言う必要なくない? とか。逃げ出そうとする心を捕まえに来る。 「……俺も」  音になったかわからないくらいの小ささで答えれば、ふわりと綻んだ顔が一瞬にして距離を消した。  学生時代の淡い思い出。あんな別れ方さえしなければ、それで終われたのに。
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