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さざえの歌
11月。
この日は強風で波が高く、東京竹芝桟橋からのジェット船は僕が乗った便を最後に運休となった。二時間もかからず島に到着した僕はバッグを宿に預けると温泉に入り、その帰り、港の傍で営業していた食堂に入ったのだった。
「本当なんですか?」
「ああ。この店に来たよ。しばらく一人で飲んでた。もう5年も前だよな、この位の季節だった。丁度今お客さんが座ってる席でね」
まだ時間が早いからか、カウンターに座る僕以外にお客はいない。日は傾いてきたけれど、酒を飲むには少し早い時間かもしれない。でも、僕はこのあたりで飲まれている「盛若」という焼酎を水割りで飲みながら、メジナというあまり聞かない魚の刺身をつついている。島唐辛子を刻んだものを入れた醤油につけて食べる。島の食べ方らしい。
この店の主人は、僕と同じ年恰好だろうか。多分40代前半。目じりの皺に潮が浸み込んだ島の人特有の相貌だった。
「あ。突き出し忘れてたよ。ごめんね、順番が逆だ。ちょっと待って」
主人は思い出したように手をたたくと、すぐに小ぶりのお皿を出してくれた。
さざえだ。貝殻の中に、爪楊枝がささったさざえの煮物が入っている。
「醤油で煮たんだ。うまいよ」
僕は殻の中から身を取って食べた。
「うまいです。こりゃうまい」
「ははは」
「それよりさっきの話なんですけど。岬遼平がここに来たって話」
「ああ。うん。この島ね、都心に近いから来るんだよ、よく芸能人が。ロケでも来るし、プライベートでも来る。岬遼平はプライベートだな」
岬遼平はベテランの歌手だった。伸びのある美しい声で歌う正統派の歌い手で、多くの人に評価され、ファンに愛されていた。その彼が、突然転落人生を歩み始めたのは、奥さんに対する保険をかけた殺人容疑だった。
「俺はなんとも言えねえな。ここで静かに飲んでるときはそんな悪いことするような人間には到底思えなかった」
岬遼平は奥さんに対する殺人容疑で逮捕された。彼は無罪を主張したものの、一審は有罪で懲役が科せられた。弁護側は直ぐに再審の請求をし、第二審で彼は証拠不十分の無罪を勝ち取った。しかし検察はさらに審議を最高裁に持ち込んだのだった。
「もし審議が進んでたら最高裁はなんて結論を出したんでしょうね」
それは丁度、岬遼平がここで飲んで島から戻ったすぐ後のことだったらしい。彼は自宅マンションで首を吊って死んでいた。裁判は被疑者死亡のため、不起訴となった。真実は闇に葬られたのだった。
「まあ。岬遼平が本当に奥さんを殺めたんならそれは納得できる。それは因果ってもんだ。でもな、そうじゃなかったかもしれないんだよな」
「はい。殺してないかもしれなかった」
「としたら、奥さんを殺された上、自らも命を絶った理不尽な被害者」
「はい」
「岬遼平を殺したのは誰だ」
「マスコミ」
「そう。それからそれを騒ぎ立てた人間たちだよ。岬遼平は、そういう無責任な人間たちに寄ってたかって責め立てられ殺された。日本には逃げ場がなかった。国を挙げてのリンチだな」
背筋が寒くなる話だ。
「ほら。お客さんが食べてるそのさざえね。岬遼平、その貝殻見ながらしみじみ言ったんだよ。この貝の中に住みたいって」
そんなドラマがあったような気がする。でも、その気持ちはよくわかる。
「貝の中に住んで、自分のためにだけ歌を歌いたい」
「人のためになんか歌を歌いたくなかったんですね」
「そりゃな」
裁判が始まってから、岬遼平が一度も歌を歌わなかったのは有名な話だった。彼は文字通り殻にこもったのだ。他者との交渉を一切絶った。
僕は、空になったさざえの殻を手に持ってしみじみそれを眺めた。
僕だったら。
僕だったらその最深部に潜り込み、じっと膝を抱えて最期の日を待つに違いない。
店を出たときには、夜闇が空の半分に訪れていた。風は相変わらず強い。
向こうの桟橋に波頭が立っているのが見える。僕は桟橋の先を目指して歩きながらスマホを立ち上げた。
<なんだよ。逃亡かよ。エロ市長>
<権力を笠に着てやるだけやってな>
<死ね死ね死ね死ね>
飛び込む罵詈雑言。
それは関東の一つの市の市長である僕に対する言葉だった。
僕はその市の女性市議をレイプしたと告発されたのだ。僕は100%合意だと思っていた。独身同士の二人には愛以外でそんなことが起こるとは想像すらしていなかった。いわゆるハニートラップだ。レイプか合意の上か、その違いだけで、いずれにしても事実はあった。言い訳は通用しなかった。
僕が正直すぎた。僕が軽率だった。
そして僕は、男女の愛に対する経験があまりにも足らな過ぎた。
僕はいつしか桟橋の先に立っていた。
遠くに灯台の灯が見える。
僕は波を浴び続けながらじっとそこに立っていた。
その時、波の音に紛れて、かすかなテナーの歌声が聞こえた気がしたのだ。
さざえの歌だ。
この国に僕の居場所はない。
そこになら僕の居場所はある。僕をわかってくれる人もいる。
海の底になら。
僕はスマホの中身を初期化するとそれを海に投げ込んだ。
そして思い切り桟橋の角を蹴ると、自らの体を波頭に投げ出したのだった。
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