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「ファッションとかあんまり気にしない人だと思ってました。」
「俺だってそれくらい気にするさ。」
変な距離を置いた会話しかできない、そんな状況を彼女にさせて良いのかと思った事を切欠に話は変わる。水中で会話をしているような感覚に耐えられなかったのは、泳ぎが苦手な辰実の方。
「馬場ちゃん、俺は君に警察官を辞めた理由について話をしてなかったな?」
「…教えてくれるんですか?」
辰実が顔を上げた時に、梓はカウンターの台から身を乗り出していた。
「酒の肴になるのも烏滸がましい話だよ。」
ようやく、ほぐした焼き鯖を辰実は口に運ぶ。噛むごとに火に閉じ込められた旨味と塩味を冷えたコークハイで流し込むのが、至福と言っても過言では無い。
「君がもし…、もしもだ。誰かの思惑でここに居るとしたら?」
質問の答えを頭の中で文にしながら、梓は辰実から受け取った空ジョッキを受け取って流しに置いた。
「コークハイで」
「はい」
ジョッキに氷を詰め込んで、そこにウイスキー、冷えたコーラと注ぎ込む。マドラーで軽く挿し込む程度に混ぜれば気持ち良くなる程に冷たい一杯が出来上がる。
「この場に居ようと決めたのは私です。」
「そうだったな。」
一口で半分を飲んでしまった辰実のペースは速い。
「俺が警察官になったのはどうやら、仕組まれた事だったらしい。」
昨年の初夏に、辰実と梓は当時市長になったばかりの男を逮捕した。
組織的にモデルやグラビアに対し性行為や枕営業をさせていたのがこの男で、有力な地方議員の息子である事を傘に自分に都合の良い環境を作り上げていた。「モデルやグラビアを好きなようにしても良い」という人の欲求に漬け込んだ甘い汁だけでなく、23人が殺害された事件もこの男が教唆していたというのだから闇は深い。
それが逮捕に至ったのは、辰実の存在であった。警察官を拝命する前にローカル誌の編集社にいた辰実は、そこでモデルをしていた女性と交際していた。その恋はモデルの彼女を自分のものにしたいと思った男に引き裂かれ、宙ぶらりんのまま知らぬ間に終わりを迎える。その後に上司となった男が辰実に警察官となるよう説得したのも、彼女が復讐のためにかの者を叩き落とすための切欠作りだった。
これは、辰実自身が交際相手だった女性から打ち明けられた話。被害に遭いながらも、辰実への愛が残っていた故に彼女が望んだ復讐だと知った時、愛されていた事に対する歓びと同時に言葉にできない哀しみは今でも憶えている。
梓にとっては知りたかった話であるが、ゴミの日にでも出した方が良い過去の話など時間と文字の無駄だろう。
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