空席のとなり

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空席のとなり

午後6時。 若松商店街の一角にある小さな居酒屋、ダイニングあずさはこの時間には開店する。これが午後11時に閉店するまで、年季が入って銀をいぶし始めたようなヒノキのテーブルが目を惹く店は休まない。背もたれの小さい椅子が8脚置かれたL字型のカウンター、いつも満席と言わずとも絶える事はあまり無かった。 腰の痛そうな、膝丈にいかないくらいの電光式看板は年季が入っている。何かの木でできた引き戸の前にそれを置けば店をやっている合図。 この日は開店して少し経ってもないのに1人来ていた。ぶっきらぼうな表情でコークハイを傾けた男である。 「久しぶりですね、黒沢さん。」 「ああ。」 焼きあがった塩鯖を、辰実の前に置く。焦げた薄皮から漂う香ばしい匂いも、彼の表情を崩す事は無い。 「俺が警察官を辞めて以来だな。」 「そうですね。…心配してたんですけど元気そうで良かったです。」 警察官だった時に比べたら、辰実は幾分穏やかな様子であった。退職する前には口数が減って、険しい顔で常に何かを考えていた彼の落ち着いた様子を彼女は初めて見たような気がした。 「実は、私も退職したんですよ。」 この店を1人で切り盛りしている馬場梓(ばばあずさ)も警察官であった。彼女の上司であった辰実は部下だった彼女の話を聞きながら、焼き鯖を木製の箸でパチパチほぐしている。視る事ができない梓の事を考えてしまうと、どうしても箸で切り分けた魚を口に運ぶ事はできない。 「いきなり仕事を辞めてしまった事は、すまないと思っている。」 「元々、お店を継ぐかどうかで迷ってたんです。気にしないで下さい。」 考えてもそんな言葉しか出なかった辰実に、梓ははにかんで答えた。 「嘘です。本当は黒沢さんが退職してから考えたんですよ。」 居る事が嫌になってしまい自ら立ち去った席、隣に座っていた梓の胸中を考えると辰実は呼吸を忘れてしまう。いなくなってしまいたい、その席から消えてしまいたい気持ちを自分だけのものにする事が出来なかった事を悔やむ。 大和撫子を体現したような切れのある瞳は変わらないのに。もっと長かった筈の黒髪をアップで団子にしていたのが今は肩にかかるくらいの長さになってしまった。 「黒沢さんも、髪型変わりましたね。…それに眼鏡までかけて。」 梓からすれば、無造作なのは変わらないが前より辰実の髪がサッパリしているように見えた。目が悪いと言う話は聞いてないから、丸眼鏡に度は入ってないのだろう。対して何処を見て良いのか、何を言って良いのか分からず辰実はヒノキのテーブルをぼうっと眺めるしかなかった。
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