残り香

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 彼は想像していた通り読書が好きみたいで、時間があると本を開いていた。  彼は前髪の陰からチラリとこちらを見て作家名を言い、薄く笑った。  それだけで私の胸は早鐘を打ち、二人きりの空間でこのドキドキが響き渡って彼に知られてしまないか不安になった。 「……今度、読んでみる」 「割と難しいと思う」 「読んでみないと分からないでしょ。お勧めタイトルは?」  尋ねると、彼は嬉しそうに数作の作品からなるシリーズを語り、私に勧めてくれた。  普段あまり感情を露わにしない人だけれど、本の話になると目尻に皺が寄る。  目は細いのかと思っていたら、意外と大きい。睫毛も長い。  前髪に隠れた眉毛がどんな形をしているのか知りたくて、私はしばし彼の額を凝視していた。 「聞いてる?」  不意に賢吾くんの声がし、床の上に置いていた私の手に、彼の小指が触れる。  ビクッとして息を呑んだ私の前で、賢吾くんが目を細める。愉悦の籠もったその目元は、まるで獲物を前にした肉食獣のようだ。  魅入られたように、私は賢吾くんを見つめ続ける。  日本人は黒目黒髪と思っていたけれど、彼の目は焦げ茶色だ。ちゅるんとした目の玉の奥に、私が映っている。  すんなりとした鼻筋に、男性にしては色白の頬。そこに生えている産毛も分かる距離になって初めて、髭の剃り跡に気づいた。  ――男なんだ。  いや、分かっていた。二つ上の男性だから気になって、いつも目で追っていた。喋ると上下する喉仏に、平らな胸板。すべて男性のものだ。  知っていたはずなのに、今目の前にいる彼が〝男〟なのだと初めて気づいた。  髭が生え、きっとすね毛もある。男性器もある? いや、あるに決まってる。  日々漠然と「格好いい」と思っていたイメージの賢吾くんが、やけにリアルに、生々しく感じられた瞬間だった。 「……キスする?」  小さな声で尋ねられる。  声量を潜めたからか、彼の声は微かに掠れていた。  その声音が私の耳を犯し、続々と胸の奥を怪しく揺らす。鼓動はバクバクと高鳴り、胸から飛び出てしまいそうだ。  私という肉の器の中でオーケストラのティンパニもかくやという大音量が鳴っているのに、アパートの中はシンとしている。  同じ建物のどこかで学生が笑い合う声が聞こえ、開け放たれた窓の向こうから車の走行音が聞こえる。  風が吹き、私と彼の髪を揺らした。 「…………する……」  知らない間に、しなやかで細い糸に搦められ、優しく緩やかに引き寄せられていた気持ちになった。  賢吾くんは本にスピンを挟み、床に置く。  大きい手が私の頬を撫でた。指の長い節くれ立った、男らしい綺麗な手。  いつも彼の手を見て〝妄想〟していたなんて言えない。  あの手が、今私に触れている。  四本の指がゆっくりと動き、頬から顎へと撫でていく。 「…………っ」  見つめられ、頬を撫でられただけで陥落した。胸が高鳴り、うまく呼吸ができない。いや、息を止めていたのかもしれない。  唇に触れられたかと思うと、小さく口を開く音がし、キスをされた。  ――柔らかい。  この世にこんな柔らかいものがあったのかと思うぐらいの、甘美な質感。  いつも以上に彼の香水が匂い立っている気がし、気がつけば私は賢吾くんに抱き締められ、その香りに包まれていた。  後頭部を撫でられ、髪を指で梳られる。  小さなリップ音を立てて唇が微かに離れ、賢吾くんが薄く笑った。 「いつも俺の事見てたよね?」  ――ばれてた。  私は体を大きく震えさせ、彼の腕の中で身を小さくさせる。  けれど僅かにできた隙間すら許さないというように、賢吾くんはさらに私を抱き締めてきた。  何回唇をついばまれたか分からない。  キスなんて初めてで、作法なんてものも知らない。  硬直している私の唇をいたぶるように、賢吾くんは巧みなキスをして、そのうち口内に舌をねっとりと這わせてきた。  体内に人の一部を受け入れるなど初めてで、私はさらに混乱して硬直する。  口の中を好きに動き、くすぐってくる舌は、生温かくヌルヌルとしている。
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