残り香

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「……嘘だ……」  私はきつく歯を食いしばり、うめくように言う。 「賢吾の体にキスマークがついていたの、気づかなかった? 所有してる気分になるから、私、キスマークつけるの大好きなんだけど」 「あ……」  言われた瞬間、頭を鈍器で殴られたような心地になった。  白い肌に浮いた茶色い、場所によっては赤黒い痣は、虐待されていたんじゃなかった。  あれは、キスマークだった。  あまりに経験がないから、本物のキスマークがどんな色、形をしているのかまったく知らなかった。 「うぐ……っ」  吐き気を覚え、私は口元に手を当ててうめく。  私は、全身にこの女の所有印をつけた男に、抱かれていた。  信じがたい現実を知り、今までとは違う涙が流れる。  それまでが怒りと嫉妬なら、今は嫌悪と絶望だ。  そんな私を見て、女はニタァ……、と笑う。  ――嫌な予感がする。  思わず危機感を覚えるほどの、邪悪な笑みだった。 「大人の世界を知った女の子に、イイコト教えてあげる。賢吾はいわゆるママ活をしてるの。お金がないから私の奴隷になって、それで念願の大学生になって、ちょっといいマンションに住んでるんだよ」  ふーっ、ふーっ、と荒くなった呼吸を必至に整える。  そうでもしなければ、あまりの残酷な現実に叫びだしてしまいそうだった。  分かってる。彼の事を何も知らずに、あれこれ綺麗な妄想を抱いていた私が子供だった。  分かってるけど! それでも、これはあまりに酷すぎる。汚すぎる! 「あーあ、泣いちゃった。かわいそー。……じゃあ、もっととっておきを教えてあげる」 「聞きたくない!」  逃げようとする私の腕を、彼女が引っ張る。  綺麗に整えられたネイルが腕に食い込み、痛い。細い腕に似つかわしくない、強い力だった。 「私のペットを寝取ったんだから、きちんと最後まで聞きなさいよ」  それまでニコニコしていたのに、急に女はドスの利いた声を出した。  そしてまたルージュを塗った唇で笑い、私に囁いてくる。  雑踏よりずっと小さな声なのに、彼女の声はやけにクリアに聞こえた。  まるで脳髄の奥まで、呪いの言葉となって私を犯しているかのようだ。 「賢吾は私のマンションでは、全裸で過ごしてるの。鎖のついた首輪をつけて、私の命令なら何でも聞くのよ。あの子、舐めるのうまかったでしょ? 女の喜ばせ方を一から十まで教えたのは、私なんだから」 「う……っ、うぅ……っ」  女に腕を掴まれたまま、私は屈辱と敗北感にまみれて嗚咽する。 「もういい。今後二度と賢吾くん、……ううん、高沢くんには近づかないから、これ以上汚らしい事を教えないで!」  そんな私の願いも聞き届けず、彼女は悪魔のように囁いた。 「あの子、私のうんこも食べたの。三等分にして、一切れ十万円。あはっ」 「っ~~~~っ!」  こみ上げた気持ち悪さに、とうとう私は口元を押さえてその場にしゃがみ込んだ。  この女の大便を食べた口で、私にキスしたの? 私の体中にキスをした、あそこを舐めた? 「ふざけんな!!」  声の限り叫んだ私は、立ち上がりざま女を力一杯突き飛ばし、高沢を睨んだ。  滂沱の涙を流し、アイメイクが崩れていようが気にする余裕もなかった。 「もう二度と話しかけないで!!」  声の限り叫び、私は高沢に思いきりビンタを食らわせる。  叩かれた彼は「……ってぇ……」と小さく呟いたあと、無感動な目で私を見つめる。  明るいところでは焦げ茶色に見えたはずなのに、その目の色はとても黒く、昏く、何も映していない真の漆黒に思えた。 「勝手に期待して、勝手に幻滅するなよ」  ボソッと呟かれた言葉があまりに正論すぎて、そのあとは何も言えなかった。 「クソッタレ!!」  叫んだあと、私は全力で走ってその場をあとにした。  遠くから様子を見ていた女友達に何を言える訳もなく、駅に駆け込んで改札を通った。  帰り道、私は電車の中で泣きじゃくっていたけれど、勿論誰も声なんて掛けない。大都会なんてそんなもんだ。  逆に、そのよそよそしさがありがたかった。 **
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