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「飯野さん? 飯野さんはね、いい人……っていうか、どうでもいい人?」
サービスエリアのお土産屋を通り過ぎた時に偶然聞こえた女性社員たちの声に男は足を止めた。いや、止まってしまった。
飯野、という名前に聞き覚えがあったからだ。
飯野忠人。入社7年目の取り立てて特徴のない、どうでもいい人は彼自身だった。
「どうでもいいって、ちょっとひどくな~い?」
「だって、飯野さんてなんか影薄いっていうかさ。やっぱり影があるとかワイルドとか……」
彼女達の笑い声が遠ざかっていく。飯野はその場から動けず立ち尽くしていた。
『いい人』は『どうでもいい人』。
その現実を目の当たりにして彼は打ちのめされた、また。
学生時代から飯野はよく言われていた。いいひとの飯野と。彼の祖母に『どんなに泥に塗れても綺麗な心だけはうしなっちゃいけない』と言われ続け、飯野はいいひとであり続けようとした。
だが、高校生の時も同じように彼は聞いてしまったのだ。飯野君はいい人でどうでもいいひと、と。
大学時代には酒の場で笑いながら言われた。飯野はいい人なんだけどどうでもいい人だ、と。
そして、今、また言われてしまった。
しかも、正直な話、いいなと思っていた人に。
(小谷さん。女性社員の中でも明るくて、笑顔が素敵な人だった。)
だけど、小谷にとって飯野は『どうでもいいひと』だった。
その事実が、彼に重くのしかかってくる。
ただの事実。影の薄い飯野でも、それがいかに残酷な事実であるかは容易に想像できる。
その現実が彼には重たかった。
だから、せめてもの思いで彼はその場から離れた。
もう、どうでもいい人にはなりたくないから。
(どんなに泥に塗れても綺麗な心だけはうしなっちゃいけない)
祖母の言葉はまるで呪文のように彼の心に刻み込まれていて、彼はその言葉を守っているだけだ。
だが、その呪文は彼を苦しめる言葉でもあった。
「あ……落としましたよ」
「え? あ……ありがとうございます。」
ぼーっとうわの空でバスに戻っている途中でも、飯野は財布を落とした女性に声を掛ける。ショックを受けていても手には拾ったゴミがあるし、こういうことも出来る。
「きっと死ぬまでこんな生き方なんだろうな……」
ゴミをポケットにねじ込み、財布を拾った女性にお礼を言われ、まだガラガラのバスに乗り込む。勿論、一番乗り。真ん中辺りの一人席に座って飯野がみんなを待っていると、少しずつ社員が戻って来て、その中には小谷もいた。
「えー、ほんとにー?」
「いや、マジマジマジだって。いやー、あの頃は結構俺もワルだったからね」
社内でも顔立ちが整っておりワイルドな雰囲気が人気のある秀島と楽しそうに話しながら、何気なく飯野の席と通路を挟んだ二人席に座る。他愛もない話をしながら二人は笑い合っていた。
その小谷の笑い声に飯野は胸を締め付けられる思いがして外の景色に顔を向ける。真っ白な雪景色とうっすらと浮かぶ特徴のない男の寂しそうな顔の映るガラスが見えた。そして、ゆっくりを目を閉じ眠りについた。
「な、なにやってんだよ!」
突然聞こえてきた秀島の叫び声で飯野は慌てて飛び起きる。周りを見渡すと、車内はいつの間にかパニック状態になっており、みんなの視線の先、高速バスの車内前方には今年入ってきたばかりの新入社員の男の子が妙に生々しく感じられる銀色のナイフを持って立っていた。
(西田……! 一体どうして……!)
飯野も彼のことはよく知っており、コミュニケーションは得意ではないけどすごく一生懸命な子だと思っていた。営業に配属され秀島の下につけられたと飯野は聞いていた。
「う、うるさい! ひ、秀島……! お前の声が耳障りなんだよ! なんで……なんでお前みたいなのが……神様は不平等だ!」
西田自身も興奮状態で感情がコントロールできないのか支離滅裂に叫び、ナイフを振り回している。名前を出された秀島は「は? 俺?」と呟き、唖然としている。何かがあったのは間違いないようだが秀島は認識していない様子。 飯野は出来るだけ西田を刺激しないように静かに立ち上がり両手を上げて諭すように話しかける。
「ね? とりあえず落ち着こう? こんなの君が損するだけだよ。君はどうしたいの? 出来るだけのことはするよ」
飯野の声に順応するように周りも少しだけ落ち着きを取り戻し西田の声を待つ。西田も少し社内の空気が変わった事で戸惑いを見せているようだった。だが、
「おい! うじうじしてねえで、はっきり言えよ! 男だろ!」
秀島が飯野を席に押しのけ西田に詰め寄っていく。どう考えてもとるべきではない行動。だが、秀島は自分の立場を取り戻したかったのか大きな声をあげながらナイフを持った西田に近づく。秀島の行動に首を傾げながらも飯野は倒されぶつかってしまった席の社員の手を借り立ち上がる。
「あ、あ、ああああああああああああああ!」
飯野には秀島の背中越しに西田の奇声が聞こえた。そして、女性社員の甲高い悲鳴が合図かのように秀島が崩れ落ち、その向こうにあった血塗れの震えるナイフが見えた。
「ああああああああああ! ああああああああああ!」
西田はもう壊れたおもちゃのようにただただ奇声を発しながらナイフを向けて駆ける。バスの通路には、秀島を止めようとしたのか応援しようとしたのか小谷が立っていた。
小谷と西田が交差する瞬間、飯野は咄嗟に駆け出す。
――どんなに泥に汚れても、綺麗な心で。
二人の間に体を滑り込ませた飯野の背中に鋭い痛みが走った。
一瞬、何が起こったのか自分でも理解出来なかったが、とにかく目の前の女性を守れたことに安堵する。だが、次の瞬間に激痛が走り堪えきれず倒れ込む。
「飯野さん!」
小谷の泣きそうな声で意識が戻り、背中が濡れる感覚を認識する。彼女の涙だろうか。背中に突き刺さったナイフは西田の手を離れ床に落ちていた。そのナイフと西田を他の社員たちが慌てて取り押さえている様子がぼんやりと見えて、飯野はほっと息を吐く。
「なんで……い、飯野さん、私を庇って……」
「だ、大丈夫……大丈夫だから……だって」
(やっぱり僕はいいひとなんかじゃないな)
「僕は……どうでもいいひと……だから」
飯野の言葉に小谷は目を大きく見開く。
(死ぬくせに、人に罪悪感を抱かせるなんて。だけど、きっとみんな忘れる。小谷さんもみんなもいつかはわすれる。
ぼくは、どうでもいいひとだから。だから……)
飯野は、その暗い目を小谷に向けて微かに微笑み、そして、息を引き取った。
真っ白な世界。音も色も何もない、ただ白いだけの空間で飯野は目を覚ました。
いや、正確には白いだけの空間に飯野の他に12人の人間が居て、飯野と同じように戸惑っていた。
「な、なんだここは! 俺は死んだはずじゃあ……」
「何が起こっているんだ!? トラックに轢かれて……」
騒ぎ立てる声から察するに同じように死んだ人間が集まっているのだな、と飯野はぼんやり考えていた。そして、ふと気づく。最後に刺された背中には傷一つなく綺麗な体になっていた。正確には身体のような何か光の集合体になっているような感覚。他に何か今の状況を知るヒントはないかと周りを見渡したところで、声が響く。
『今日、あなたたちは死にました』
唐突に聞こえた女性の声に、飯野は「え?」と思わず声を漏らす。気付けば目の前に女性が立っていた。
『ですが、あなたたちは運がいい。貴方達の世界とは別の世界で貴方達の助けを求めている者達がいます。貴方達をその世界であれば転生させ第二の人生を歩むことができます。』
「てん、せい……」
飯野は、その現実感のない言葉に頭を捻った。最近のアニメなどでよく見かける異世界転生という言葉を思い出した。
(であれば、彼女は神様のような存在なのだろうか)
『転生するにあたり、貴方達には特別な力を授けます。ただし、ここにある力の結晶は13個。一人一つだけ。』
その声とともに、目の前に光る石のようなものが現れた。
『さあ、名を呼ばれたものから順番に選んでいってください。まずは……飯野忠人さん』
名前を呼ばれ、飯野は前に出るが、何故自分が最初に呼ばれたかも分からず、戸惑いの表情を見せる。ただ、そこで立ち止まるわけにもいかず、一つ一つの結晶を見て回る。結晶の一つ一つに文字が刻まれていて、自然とその文字の意味は分かった。剛剣、光魔法、闇魔法、回復魔法、召喚魔法、時空間魔法といったゲームで聞いた事のあるような名前が並んでいるのを確認すると飯野は、女神らしき存在の方を向き告げる。
「私はこういうのを迷ってしまう質でして最後にさせて頂けませんか?」
飯野の言葉に今まで穏やかな笑みを浮かべていた女神が呆気にとられたような表情に変わる。
『そ、そうですか……では、次に……』
女神はこほんと咳払いをすると、次の人物の名を呼ぶ。次に呼ばれた少年は光魔法を選び嬉しそうに笑っていた。
次々と結晶を選んでいるのをぼーっと見ていた飯野は背中をとんとんと叩かれる感覚に気付き振り返る。そこには秀島が立っていた。
「よう。飯野」
「あ、どうも秀島さん」
飯野は秀島と特別仲が良かったわけでも悪いわけでもなく、むしろ苦手な部類の人間だった。
そんな飯野の様子に気付かず秀島はにやにやとした嫌な笑みを浮かべながら口を開く。
「飯野、お前馬鹿だなー。さっさといいやつ取っておけばよかったのによ」
【剛剣】の結晶を見せつけるように手の中で遊ばせながら言う秀島の言葉に飯野は乾いた笑いを返す。
「まあ、どれもよさそうな力でしたし、これが欲しいと思っている人からの方がいいかなと」
「はぁあああ、お前はそんなだから、いつまで経ってもダメだったんだよ。ま、異世界とやらでお互い頑張ろうや」
秀島は結晶を握りしめ、女神が生み出した光の扉へと入っていく。あれが転生の扉らしい。
どんどんと結晶が選ばれていき、光の扉に入っていく中で、騒動が起きた。
「なんでっ! 僕が最後なんだよ! しかも、カススキルじゃないか!」
最後に呼ばれた男が、大きな声をあげている。どうやら残っている二つの結晶が気に入らないらしい。
残っている結晶には【火魔法】と【水魔法】と刻まれていた。飯野にとってはどちらも魅力的に見えたが、男にとってはそうではないようで癇癪を起している。
「こんなありきたりな魔法じゃなくてさあ! 光魔法とか時空間魔法をもう一個くらい出してよ」
『…………』
女神も少し困惑した表情を浮かべているが、男は自分の主張を下げるつもりはないらしく「あーだる」と声を漏らしている。飯野は、女神の表情を窺い見ると、何かを決心したように小さく頷いた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「あの……君……僕の結晶もあげるから、それでどうかな……。二つ持っているのは君だけだよ。これも特別じゃないかな」
飯野の言葉に男の目が輝く。男は少し悩んだ末、しぶしぶと言った様子を出しながら了承する。
光の扉に消えていく男を見送りながら女神は小さく呟く。
『飯野忠人さん……貴方の結晶が……』
「ああ、かまいません。世界が救えればいいのであれば、あの中の誰かが世界を救えればいいんですよね。私は第二の人生を歩ませて頂けるだけで十分です」
飯野の言葉に女神は微笑み、そして、飯野の手を取る。
『特別な力を与えることは出来ませんが、貴方への感謝とこれからの人生に幸あらんことを祈らせてください』
「それで十分です」
女神の笑顔に飯野もまた笑い、光の扉をくぐっていく。
意識が遠のく中で女神の声が聞こえた気がした。
――ありがとう、と。
そして、光が収まると赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
大きな人間達が飯野を見ていた。
(いや、僕がちいさい?もしかして、赤ん坊に?)
身体が震えている。コントロールできない感情のままに泣き叫んでいるのが自分だと気づく。
「ああ、イヒト……! 貴方の名前は決めていたの。男の子が生まれたらイヒト、と」
こうして、飯野忠人は異世界でイヒトとしての人生を歩むことになる。
「おい! イヒト! 側室の子の分際で、父上からの贈り物を頂くなんて生意気だぞ! それも俺に寄越せ!」
「いいよ、アーク。ほら」
15才の誕生日を迎えたイヒトは、正妻の子である一つ年上のアークに父親から貰った魔導書を簡単に手渡す。母親譲りの金色の髪を掻き上げるとアークはイヒトから魔導書を奪い、愉快そうに笑う。
イヒトの人生は決して順風満帆と言えるものではなかった。
王国でも八大貴族と呼ばれるリブラディール家の当主、バルト=リブラディールの子として生まれたイヒトだったが、それは飽くまで側室の子として。
正妻であるアイラは、側室でありイヒトの母であるイオナとその息子を毛嫌いしていたし、アイラの子であるアークもイヒトを馬鹿にしていた。バルトは、王都でのお役目の為に、自身の領地に帰ってくることはほとんどなくアイラの天下ともいえる状況になっていた。
年を追うごとにアイラやアークの嫌がらせは酷くなっていった。しかし、イヒトは別にそれを気にした様子もなく淡々と日々を過ごしていた。
それは、15才になった今も変わらなかった。
「ふん、もっと抵抗するかと思えば簡単に渡すとは情けないやつめ。今日には父上が帰ってくる。お前とはもう二度と会う事もないだろう」
この世界では15になれば一人前の大人とされ、家を継ぐことも出来れば、逆に、もう一人前だから自立しろと家から追い出されることもある。
だが、リブラディール家は裕福である上に、数少ない息子の一人であるイヒトをバルトが追い出す理由はない。それでもアークがそう告げ笑っているのには理由があった。
「固有スキルを持たない才能なし。ダンジョンに行ってもいつもボロボロになって帰ってくる雑魚だとちゃあんと父上に俺から報告してやったからな」
固有スキルは普通一人一つ持つ才能の塊であり、その質に差はあれど持っていない人間は稀有だった。イヒトは白の空間で結晶を譲ったために固有スキルを持たない才能なしと判断されることになった。
その事実がアークを増長させる結果となり、ことあるごとにアークはイヒトにつっかかっていった。
「そうか……まあ、それは事実だし別にいいよ」
イヒトがそう言って笑うと、アークはあからさまに不機嫌になり、イヒトの脛を蹴る。【剣士】の固有スキルによって高い身体能力を持つアークの蹴りによろけるイヒトだが笑みは崩さない。眉間により深い皺を刻んだアークが拳を握り踏み込んだ瞬間、
「止せ」
静かに、だが、身体の芯に響く声が聞こえ足を止める。
二人の送る視線の先には黒い軍服に身を包み金髪の隙間から赤銅の瞳を覗かせる男が。
「ち、父上!」
「お帰りになられていたのですか……」
王国でも五本の指に入る実力者である父バルトの迫力にアークは身を竦ませ、イヒトも身体を緊張させ噴き出る汗を拭う事も出来ず身構える事しか出来ない。
「リブラディールの人間が無駄な時間を過ごすな。食事だ、行くぞ」
バルトが背を向け従者を引き連れ去っていくと、アークもイヒトも大きく息を吐き脱力する。
「は、はは……そうだな、父上の言う通り才能なしに構うなんて時間の無駄だ。だから、お前は今日でお別れだ」
「…………」
勝ち誇ったように告げ、アークの従者に支えられ去っていくアークの背中をイヒトは従者の手を借りながら立ち上がり興味なさげに見つめる。
そして、運命の晩餐が始まり、バルトの一言により静まり返る。
「あ、貴方、今、なんと言いました?」
「……イヒトは15になった。よって、イヒトよ、お前がこの家を取り仕切り繁栄させてみせよ」
「な……!」
アイラ、アークが驚いたのは勿論のこと、イヒトの母であるイオナも口に手を当て目を見開く。イヒトだけが眉一つ動かさず頭を下げ従う意思を見せる。 その様子を見てアークは慌てて立ち上がり声をあげる。
「ち、父上! どういうつもりですか!? あいつにこの家を取り仕切らせるなどと!」
「そ、そうよ! アークがいながら」
アイラがアークの発言に同意し立ち上がるがバルトはじろりと赤銅色の瞳で睨みつけすぐに黙らせた。
「では、問おう。アークよ。お前はもう16だ。それまでに何を為した? アイラ、お前もだ。イヒトが15歳になるまでに何をここで為した?」
「は?」
「イヒトは、この家のほとんどの人間から、そして、この街の多くの者から信頼を寄せられ評判もいいという報告を受け取っている。また、街の声を聞き、それの解決案を出すなど街の発展に十分尽くしていると聞いた。お前はどうだ?」
「え……う……」
蛇に睨まれた蛙のようにただただアークはバルトの目を見つめたまま脂汗を垂れ流す。見かねたアイラがアークを庇うように割って入りヒステリックに叫んだ。
「あなた! アークは何も教えられていないのよ! それにアークは正室である私の……」
「何も教えていないのは誰だ。お前だろう。そして、教えを乞うべき人間はいくらでもいるはずだ。……イヒトよ、私はお前たちに会うたびに何と言っていた?」
「……学びを絶やさず修練に励むように、と」
「その通りだ」
「いや、でも、それは……才能なしが学ぶべきだと」
「お前はそう都合のいい解釈をした。十分な環境を与えたにも関わらず、そして、家臣の者達からも再三忠告されたはずだ。私が指示したからな」
淀みなくバルトの質問に答えるイヒトに対し、アークはしどろもどろで口ごもりながら周りを見渡す。家の者はアイラやアークの指示には従っていた。だが、同時に己の主に相応しいか見定められていたことにアークは漸く気付く。 これまでのイヒトに対する苛立ちの理由は今この場に充満しているイヒトへの敬意とアークへの諦念によるものだとアークは気付けていなかった。
「で、でも……じゃあ、何故今までイヒトがやられているのをコイツ等は……」
「それも私が指示をしていた。この程度で折れるのであればそこまでの器だと。だが、イヒトは折れることなく己のすべきことを為し、それ故に家の者の信頼を勝ち得たのだ。アイラ、アーク、お前達には二つの選択肢をやろう。イヒトに従い家に残るか、この屋敷を出てリブラディールの主にふさわしい人間となって帰ってくるか……一晩考え決めるといい」
去っていくバルトに、うなだれる事しか出来ないアイラ達。そして、戸惑うイオナをしり目にイヒトはただ食事を丁寧にとり、使用人たちに礼を述べた。
その夜イヒトがイオナを連れ、アイラ達に与えられた離れに戻ろうとした時だった。
イヒト達の前に二つの影が現れた。
「……なんのつもりだ。アーク」
イヒトの視線の先。月明かりで白く照らされているにも関わらずはっきりと赤みがさし怒りに震えるアークが柄に手を掛け立っていた。
「イヒトォオ! 貴様、よくも俺を罠に嵌めたな!」
「……何も嵌めていないよ。勝手に君が嵌ったんだ。それでそんなに殺気を漲らせて何の用だ?」
イヒトが言い終わるや否やアークの抜いた剣の切っ先がイヒトの目の前で止まりイオナは息を呑む。イヒトはじっと見つめている。アークは少しだけ切っ先をずらすと醜悪に笑い口を開く。
「お前は、これから、父上のところに行き『自分には荷が重い。権利を放棄したい』と言うんだ……!」
イヒトは、表情を変えない。
「それ自体は別にいいけど、君がこの街を収めるという事かい?」
「その通りだ」
「じゃあ、よくないね」
「……! 『また』、それか……! お前はいつもいつも……! 痛い目見ないと分からないようだな! ブラッド!!!」
「ああ」
もう一つの影が前に進んでくると月明かりが照らす。アークとは違い余裕のある様子で現れたのは銀髪碧眼で魔法使いのローブに身を包んだ青年だった。
「初めまして、イヒト。僕の名はブラッド。魔法学院の天才と言われているんだけど知っているかな」
「ええ、確か……二系統の魔法を操ることが出来るとか」
「知っているなら話は早い。僕は、アークとお友達でね。君がうんと言うまで僕が君を傷つけなきゃいけないんだ。だから、早めに頷いてくれ、みっとなく土下座でもしてね」
「ドゲザ……? 聞いたことのない言葉ですね。どういうものですか?」
「地面に頭をつけて許しを乞う態勢さ。まあ、すぐに教えてあげるよ。すぐにね!」
首を傾げるイヒトに向かって、ブラッドは無詠唱で火魔法を放つ。イヒトはそれを察しすぐさまイオナを抱え後ろに跳ぶ。それを逃すまいとブラッドの左手から水の鞭が現れイオナを抱えたイヒトを追う。しなる水鞭の一撃をイヒトが躱し霧散したところでブラッドが手をたたいた。
「スバラシイネ、才能なしの癖に! だが、僕はまだ力の半分も出していない。母親がいてハンデがあったと言い訳されるのも不快なんでね。さあ、母親は逃げた。もう心残りはないだろう。とっとと死んでくれるかな?」
ブラッドが右手に炎を、左手に水球を浮かべる。先ほどまでの威力とは比べ物にならないほどの魔力が溢れ、直撃すれば市の可能性も十分にあるとイヒトが考える程だった。
だが、イヒトは表情を変えない。
「ひとつ、聞かせてくれ、アーク。君は僕の代わりに当主代行になってこれから何をするつもりだい?」
「お前がするよりいい街にしてやるよ」
「それは、街の店から上納金を受け取ったり、貧民から女の子を攫おうとしているような君にとって都合がいい街のことかい?」
イヒトの言葉にピクリと眉を動かすアーク。イヒトは全てを知っていた。 アークが街でどんな悪さを働いていたかも知っており、自分はそんなイヒトを知らなかった。それがなにより不快だった。
「……いちいちうるせえ奴だな。良い家柄の人間がいい思いをする。それの何が悪い!?」
「よくないね。とってもよくないと思うよ。でも、アークはそうは思わないし、ブラッド、貴方もそうは思っていない」
「力あるものが弱者を守ってやっているんだ。当然の報酬だと思うがあ?」
「よくないね。とってもよくない」
「だったら、なんだぁああ!? おい、お前ら出てこい!」
アークの号令で、方々から武装した冒険者崩れらしき人々が武器をちらつかせながら現れる。厭らしく嗤いあうブラッドとアークがイヒトの方を向きまた嗤う。
「これだけの数とこのブラッド様のチートスキルがあるんだ! お前に勝ち目はねーよ、ばーか」
「じゃあ、やってみるといい」
「言われなくても!」
アークの指示で大勢がイヒトを囲み逃げ場を塞ぐと、ブラッドは両手に作り出した火球と水球を同時に放つ。
「ぎゃはあ! これで、し、ね……?」
ゲラゲラと嗤いながら放たれたブラッドの魔法であったが、巨大な水球が並行してとんでいた火球にぶつかり消えてしまう。
「ば、馬鹿な!」
慌てて複数の魔法球を作り出すイヒトに放つブラッドだったが、それもが火と水でぶつかり合い消えてしまう。不可解な状況に目を見開きイヒトを見る。イヒトが手を挙げると、アークの雇った冒険者崩れの後ろから何人もの魔法使いらしき人物が現れる。
「な……! なんだ、こいつら」
「彼らは僕の為に来てくれたこの街の本物の良い冒険者達だ。君の水魔法を操るために操作技術に優れた魔法使いに集まってもらった」
「な、なら、火魔法だけでお前らをぶっつぶして、ふげ……!?」
ブラッドが再び魔法を練ろうとした瞬間、イヒトがいつの間にか手に持っていた鉄の塊のようなものをぶつけ、ブラッドはうめき声をあげてしまう。
「火魔法は四大属性魔法でも生成が難しい。自然界に存在するものを利用できる風、水、土と比べて時間がかかる。であれば、魔法を使う隙を与えなければいい」
そう告げながらもイヒトは手を止めない。街の子どもに教えてもらった投擲の技術を駆使しながら顔や腹といった集中力をそぐ部位を狙い撃ちし続ける。
「勿論、そういった状況を経験し対策をとっているならば話は別だけど……多分無理だね」
「お、お前ら! ブラッドをまも……!」
「無駄です」
アークが慌てて冒険者崩れに指示を出そうとした時既に首元に剣が当てられていた。アークにも聞き覚えのある声。そのシルエットはイヒトの元へ行った時には何度も見た影だった。
「お前……イヒトのメイドの獣人……!」
「ノエルと申します。彼らは全て私と私の仲間が制圧しました」
ノエルの言葉にハッとアークが周りを見渡すと、冒険者崩れたちは、家の人間や他の冒険者達にいとも簡単に制圧されていた。まるでこうなることが分かっていたかのような準備の良さにアークはただただ驚くことしか出来ない。 だが、イヒトは表情を変えず淡々とアークに告げる。
「アーク、お前の負けだよ」
「あああああああああ! うるせぇええええ! お前だけでもぶっころして……!」
「じゃあ、ノエル、離していいよ。……来い、アーク、僕を殺してみるといい」
イヒトの言葉でアークはノエルから解放される。この世界で獣人の地位はとてつもなく低い。だからこそイヒトの従者に当てられていたのだが、その獣人に侮蔑の目で解放された上に、才能なしと呼んでいたイヒトに対等な勝負を挑まれた【剣士】の固有スキルを持つアークは再び怒りに震えた。
「テメエがぁああああ! 俺に勝てる理由なんてっ! この【剣士】のスキル持ちの俺になんてっ……なんっなんっ……なん、で……」
アークの岩をも砕く一撃をイヒトはこともなげに受け流していく、
「なんでぇええ!?」
「イヒトさまは貴方が剣を振り回し強者のようにふるまっている間に、自身を弱者と自覚し頭を下げ教えを乞い文字通り血がにじむほどに努力を重ねてきたのです。積み重ねたものが違います」
冷たい目でじっと見つめるノエルを見た瞬間、間髪入れずにイヒトの膝がアークの腹に突き刺さり、悪夢の晩餐で食べたものをアークは全て吐き出しながら蹲る。
こんなはずではないとぬかるんだ地面を殴るアークと同じ思いで冒険者達に追い詰められるブラッドは顔を歪ませた。右手の火には投石が、左手の水はコントロール権を奪われてしまい、強大な魔力も宝の持ち腐れとなっていた。そして、何より明確にブラッドを倒す為の戦術。
「なんで……こんなに対策が……」
「君とアークが繋がっていたことは調べで分かっていた。そして、君がどんな力を持っているか、何故持っているかも。女神には世界を救う力として与えられたし、僕もそのつもりで譲ったんだけどな」
そこでブラッドはようやく気付く。目の前の才能なしが誰のせいでそうなったのかを。
「お、お前、あの時の……! そうか、だから、僕の固有スキルも」
「僕は最後まであの白の空間にいたからね。全員の固有スキルは覚えている」
「貴様……! そんな卑怯な手で! 恥ずかしくないのかよ!」
「……どうでもいいよ、そんなこと。大切なものを守るためならばプライドなんて必要ない。それに……」
イヒトは静かに、笑った。
「君の方が同じ人間として恥ずかしいと僕は思うけどね」
どれほどの努力をすればあの領域に達することが出来るのか、努力をしていないアークとブラッドには分からない。だが、確実にとんでもない修練が必要であることは間違いなく、それを乗り越えた厚みがイヒトにはあった。その時ようやくアークは気づく。イヒトの腕が傷だらけで、手のひらは潰れたマメだらけだと。
くぐった死線の数が違うことはアークにも分かった。そして、間違いなくイヒトは沢山の命を奪ってきた。だからこそ、必要であればイヒトはアークもブラッドも殺す。
「いやだぁあああああ! 死ねぇええええええええええええ!」
ブラッドが大きな火球を作り出しイヒトに向かって飛ばす。イヒトは躊躇いなく……駆け出した、大火球に向かって。
「イヒト様!」
ノエルの悲鳴が響く中、イヒトは水魔法を詠唱し体に纏う。ブラッドに比べれば圧倒的に弱い水魔法。身体を濡らしたイヒトは態勢を低くし、剣を地面すれすれに構えながら火球に向かう。そして、足先から火球の下に潜り込みすり抜ける。身体はちりちりと焼け剣を持った手はじゅわりと音を立てているがそれでも離さずじっとブラッドを見つめ身体を縮こまらせて大きく跳躍する。
「ひ……!」
赤い血が舞った。そして、ブラッドは視界の端に何か細長いものが飛んでいることに気づく。それは腕。ブラッドの左腕が血をまき散らしながら飛んでいた。
「いやぁあああああああああ! ぼ、ぼ、僕の腕がぁあああああ!」
「イヒト様! ポ、ポーションを!」
「ああ、ノエルありがとう」
全ての傷が癒えるわけではない。その中にイヒトの顎にある傷に座り込んだアークは気付く。あれは昔剣を振りまわし脅そうとしたアークがイヒトにつけた傷だった。イヒトはその時もいいよと言っていた。アークは、自身に怯えてイヒトがそう言ったのだと思っていた。だが、違ったのだ。別にどうでもよかったのだ。イヒトにとっては傷をつけられることなど。
その後、イヒトにとってどうでもいいアークとブラッドは捕らえられ、正しく罰を受ける事となった。母親であるアイラは自分も罰を受けると知り喚き散らかしたが、イヒトは表情を変えなかった。
その夜。
静まり返ったリブラディール邸の裏庭には多くの影が集まっていた。その中心にいたのはノエル。イヒトの従者であるノエルは主の就寝を確認し、ここにやってきた。
同じく仕事を終えた様子のリブラディールの使用人たちがノエルを前にひざまずいていた。
獣人に跪くことなどこの世界の人間であれば本来あり得ない。
そう、人間であれば。
「ご苦労様です。みな、集まりましたね。それでは、始めましょう」
ノエルがそう告げると、集まった使用人たちは『本来の狐獣人の姿』に戻る。
「ノエル様。リブラディール家に忍び込ませた内の半数29人全員ここに集合しております」
執事服を身に纏った狐獣人がうやうやしく頭を下げるとノエルは小さく頷き、集まった一同の間を歩いていく。獣人達は耳や鼻をひくつかせ緊張感を漂わせる。そして、ノエルが一周し終えると口を開く。
「皆、ちゃんと匂いも消しているようですね、結構。完全に己の匂いを消すことは屈辱とも言えるでしょうが引き続き頼みますよ」
「は! イヒト様、そして、ノエル様の為であれば我々一同全てを捨てる覚悟でございます」
ノエルは獣人達の言葉に満足そうに頷くと、イヒトのことを思い出していた。
ノエルは3度イヒトに救われていた。
一度目は、獣人であることを理由にささいなミスで簡単に命を奪おうとするアークから自分を守ってくれた時。
二度目は、姉を凌辱した人間族への復讐を果たそうとほぼ逆恨みで襲い掛かったノエルを受け入れそして諭してくれた時。
三度目は、イヒトと共に街を守る戦闘に参加した時、イヒトが自らを犠牲にして魔物からノエルを庇ってくれた時。
ノエルにとってイヒトはもはや神に近い存在になっていた。差別をせず、弱き者に手を差し伸べ、理解しようと努力し、誰かを救うために命を投げ出せるイヒトを真の主であると考え、今となっては全てを捧げる覚悟で仕えていた。 そして、獣人族の中でも高貴な血を引くことを利用し、多くの獣人をまとめ上げ、イヒトを守る為忍び込ませていた。
「よく聞きなさい。何度でも聞きなさい。イヒト様は、ご自身の命をどうでもよいと簡単に投げ出せるお方です」
ノエルは知っていた。イヒトが誰よりも自分のことをどうなってもいい、自分の命なんてどうなってもいいと考えていることを。善行の末の犠牲であれば喜んで受け入れてしまうような自己犠牲の塊であることを。ノエルにとっては何が理由でそうなってしまっているのかは分からない。だが、先ほどのブラッドとの戦いのように腕でも足でも簡単に捨てて守ろうとする人間であることは数年だれよりもイヒトを見てきたノエルには分かっていた。
「だからこそ、我々一人一人がイヒト様の未練となれるよう、あのお方と大切な存在となるのです。分かりますね?」
ノエルは考えた。イヒトを殺さない方法を。生き続ける方法を。
それは、イヒト自身に己の価値に気付かせることだった。イヒトは基本表情を変えない。笑う事はあっても心から笑った様子を見たのは恐らく三度ほど。
「あの方は、私の世界を変えてくれた。救ってくれた! 貴方達もそうのはず! あの方こそがこの世界の唯一無二の救世主であるとお伝えするのだ!」
獣人達が決意を固める様子を屋敷からバルトは見つめていた。そして、そのバルトの存在にノエルは気づいていた。ノエルは牛の獣人であり、高貴な血筋の中でも類まれな固有スキルを持っていたから。
それは【予知】。
その固有スキルでノエルは二つの衝撃的な未来を見た。1つは、イヒトが自分の命を犠牲にして人並外れた固有スキルを持つ異世界の戦士からノエルを救う姿。そして、もう一つは、イヒトが全ての異種族を束ね、魔王と立ち向かう姿。
「イヒト様、あなたはどうでもいい人ではありません。世界にとっても、そして、私にとっても本当に大切な人なのです……」
ノエルがそう呟き思い浮かべるイヒトは笑っていた。心から。
人の良さが溢れ出すような顔で笑っていた。
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