心変わり

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心変わり

 卓子(ローテーブル)を挟んで向きあうダミアンの水色の目が、クラリッサを冷たく見つめる。 「君が、そのような下劣な女だったとは。外見に惑わされて見抜けなかった自分自身を恥じるよ」  婚約者である彼の言葉は、氷の刃の如くクラリッサの胸を抉った。 「ダミアン様が何を仰っているのか、分かりません……私が、何をしたというのでしょうか」  その(すみれ)色の瞳を潤ませ、クラリッサは震える声で問うた。  二週間ほど前に会ったときは、自分を美しいと褒めそやしてくれたダミアンの豹変に、クラリッサは混乱していた。 「君の姉君のイルザ殿が、勇気を出して全てを打ち明けてくれたんだ。君に、嫌がらせをされながらも、脅されて口を(つぐ)んでいたという話ではないか。そうと分かれば、君と結婚などする訳にはいかない。婚約を破棄させてもらう」  整った顔を怒りと軽蔑に歪め、巻き毛がかった金色の髪をかき上げながら、ダミアンが言い放つ。 「そんな……! 何もかも、身に覚えがありません!」 「では、君は、イルザ殿が嘘をついていると言うのか? この期に及んで、更に姉を貶めようとするとはな。所詮、下賤な血は隠せないということか」  必死に言葉を絞り出したクラリッサに、ダミアンは汚らわしいものを見るような目を向けた。 「とりあえず、用件は伝えた。君に会うのも、これきりだ。失礼する」  ゆらりと長椅子(ソファ)から立ち上がり、ダミアンは部屋から出て行った。  彼の、すらりとした後ろ姿を見つめながら、クラリッサは何も考えられず、石にでもなった如く固まっていた。  クラリッサは、貴族であるレハール子爵の娘だ。  しかし、彼女は正妻カサンドラの子ではなく、レハール子爵が外で別の女性に産ませた、いわゆる婚外子である。  生みの母は出産して間もなく亡くなった為、クラリッサは、父親のレハール子爵の屋敷へ引き取られ、正妻の子供たちと共に育てられた。  この世界において、貴族の男性が家の外に愛人を持つこと自体は、ごく普通ではあるが、人の心というものは、そう簡単に割り切れるものでもない。当然、正妻とその子供たちが、クラリッサを良く思う筈がなかった。  レハール子爵は、正妻との間に生まれた子供たちとクラリッサを、ごく公平に扱った。  傍から見れば、それは彼自身の人徳とも言える行為ではあるだろう。  しかし、子爵の公平さは正妻たちの神経を逆撫でした。結果、クラリッサは、正妻たちによる何気ない風を装った嫌がらせに、日々(さら)されていた。  行事の予定を伝えられず、当日になって慌てることになったり、大切に保管しておいた衣服や靴が、いつの間にか破損していたり――しかし、正妻や兄姉たちは「たまたま忘れた」「悪気はなかった」「自分は知らない」と言い逃れ、挙句に「自分たちを疑うのか」と被害者を装うのが常だった。  特に、異腹の姉の一人であるイルザの仕打ちは酷いものだった。  彼女は誕生日がクラリッサよりも数日早かった為に「姉」と呼ばれているものの、実際は同い年だ。それゆえに、何かにつけて比較されることも多く、容姿も様々な技能も優れているクラリッサを目の敵にしていた。  言うまでもなく、正妻カサンドラは実の娘であるイルザを贔屓(ひいき)し、事あるごとに彼女と共謀してクラリッサを貶めた。  そのような環境でも、クラリッサは勉学や礼儀作法を身に付ける努力をしていた。  いつか、この家を出て、一人でも生きられるようになろう――彼女の胸に、未来に向けた思いが、いつしか芽生えていた。  クラリッサが十八歳になった頃、転機が訪れた。  所用でレハール子爵を訪ねてきていた、若き伯爵ダミアン・フェアラートが、偶然出会ったクラリッサを一目で気に入り、求婚してきたのだ。  白に近い金髪に映える(すみれ)色の瞳や染みひとつない肌、そして可憐さと美しさの同居した顔立ちと、すらりとした肢体――クラリッサは、見た目にも美しく成長していた。  クラリッサに夢中になったダミアンは、彼女の生まれも何ら気にする様子はなく、レハール子爵も二つ返事で二人の結婚に賛成した。  また、見目も良く快活なダミアンに、クラリッサが好意を抱くのにも時間はかからなかった。  格上のフェアラート伯爵家と姻戚関係を結ぶことは、レハール子爵家にとって有益だが、ダミアンとの結婚で実家から離れられるクラリッサにとっても、これ以上はない話だった。  婚礼の日を指折り数えていた自身の前に、再び暗雲が立ち込める時が来るなどと、クラリッサは微塵も思ってはいなかった。  そんな中、クラリッサの結婚を待たずして、彼女の実父であるレハール子爵が病に倒れ、急逝してしまった。  結果、子爵家は、母親の言いなりである暗愚な長兄ギュンターが継ぐこととなった。  庇護者とも言える実父を失い、クラリッサの周囲には「敵」だけが残ることになる。  父がいなくなってから、カサンドラたちの嫌がらせは露骨なものになった。まずクラリッサの周りから使用人たちを排除し、彼女を空気の如く扱うよう命じた。衣服も上等なものは取り上げられ、姉たちが着古したものを押し付けられる。  クラリッサにとっても、あまりに惨めなものだったが、それも婚礼までの辛抱だと彼女は必死に耐えていた。  ところが、今日になって、ダミアンから婚約破棄が突き付けられたのだ。  ――イルザ姉様が、あることないこと言ってダミアン様を騙したのだろう……そもそも、カサンドラ様の差し金かもしれない……  輝かしい筈だった将来が突如閉ざされ、絶望に打ちのめされたクラリッサは長椅子(ソファ)から立ち上がることもできずにいた。
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