黒衣の男

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黒衣の男

 黒衣の男の顔は、目深に被った頭巾の落とす影に隠されており、その表情すら読めない。  声の感じからすると、彼は二十代くらいの若い男のように、クラリッサには感じられた。  男が醸し出す、何とも言えない威圧感に、三人の破落戸(ごろつき)は一瞬気圧された様子だ。  しかし、相手が一人であるのを見て取ると、彼らは黒衣の男を(あなど)ったらしく罵声を浴びせた。 「うるせぇ、俺たちは、これからお楽しみなんだよ。関係ない奴は引っ込んでな」 「俺たちに意見するたぁ、いい度胸だぜ」 「痛い目を見てぇなら別だけどな」  数を頼みに、げらげらと笑う破落戸(ごろつき)たちを見て、黒衣の男は小さく溜め息をついた。 「安心しろ。俺が痛い目を見るようなことはない」 「はァ?!」  酔ってはいても、黒衣の男に挑発されているのは理解できたらしく、破落戸(ごろつき)たちの目に苛立ちの色が浮かんだ。 「そのクソ生意気な口を利けなくしてやるぜ」  クラリッサを捕まえている男を残して、二人の破落戸(ごろつき)が黒衣の男に殴りかかる。  何度となく繰り出される破落戸(ごろつき)たちの(こぶし)は、黒衣の男の素早い身のこなしの前に、ことごとく空を切った。  武術の心得などないクラリッサにも、黒衣の男が相当の手練れであるのが分かった。 「そんな(こぶし)では、蠅が止まるというものだ」  黒衣の男が言うと同時に、彼の手刀が立て続けに二人の破落戸(ごろつき)(うなじ)に炸裂する。  糸の切れた操り人形の如く、ばたばたと地面に倒れ伏して動かなくなった仲間の姿に、クラリッサを捕まえている大柄な男が息を呑んだ。 「お前も、やるのか?」  黒衣の男の問いかけに、大柄な男は、ぶるぶると首を横に振ると、倒れている仲間たちとクラリッサを置き去りにして走り去った。 「こんなところで寝ていると邪魔だぞ」  そう言いつつ、黒衣の男は気絶している二人の破落戸(ごろつき)の襟首を掴んで引きずり、道の端に寄せた。  目の前の光景に呆然としていたクラリッサは、周囲から歓声があがるのを聞いて我に返った。  いつの間にか、野次馬が集まっていたらしい。 「兄ちゃん、凄いな。こいつら、悪さばかりする鼻つまみ者なんだ。すぐに暴れるから誰も何も言えなくてさ。お陰で、すっきりしたぜ」  野次馬の一人が黒衣の男に言うと、他の者たちも頷いた。 「それは何よりだ」  黒衣の男は短く答えて、クラリッサのほうへ近付いてきた。 「人が集まってきてしまったな。面倒なことになる前に、向こうへ行こう」  男は、クラリッサの手を取って歩き出した。不思議と、彼女は先刻の大柄な男に触れられた際のような不快感を感じなかった。  人気(ひとけ)のない物陰まで来ると、黒衣の男は足を止めた。 「君は、この辺りの者ではないのだろう? 一目見れば分かる。貴族の令嬢が、こんな治安の良くない場所にいるというのには、何か事情があると見たが」  彼の言葉に、クラリッサは、どう答えるべきか思案した。彼女の直感は、この男が危険ではないと告げてはいたが、先刻の出来事で、警戒心もまた強まっていた。  ふと、男は、何かに気付いたとでもいった様子で、目深に被っていた頭巾を脱いだ。 「正体不明の相手に、そう簡単に事情は話せないか。俺の名はユストゥスだ」  露わになった男――ユストゥスの顔を見たクラリッサは、驚きに目を見張った。  首の後ろで緩く束ねられている、長く伸ばした真っすぐな黒髪は夜の闇を思わせた。髪と同じく黒い瞳には、遠くの明かりが映って揺らめいている。白い肌が、それらと強烈な対比を成していた。  この国では髪も瞳も明るい色の者が多く、ユストゥスのような黒髪に黒い瞳は珍しい。  しかし、最もクラリッサの印象に残ったのは、彼の美術品の如く整った顔を、右の額から左の頬まで斜めに縦断している線状の傷痕だった。 「……ああ、却って怖がらせてしまったようだな。この傷は、子供の時分の事故で付いたものだ」  クラリッサの様子を見たユストゥスは肩を(すく)めた。  「い、いえ、そういう訳ではありません!」  慌てて言ってから、クラリッサは改めてユストゥスを見た。  たしかに顏の傷は大きいが、それは彼の美貌を損ねるものではないと思えた。 「そ、その傷が、あなたのお顔の綺麗さを引き立てていると思います……」  思わず言ってしまったクラリッサは、我ながら何を言っているのかと赤面した。 「ふ……ははは!」  不意に、ユストゥスが声を上げて笑った。 「面白いことを言うものだな。そんなことを言われたのは、君が初めてだ」  笑顔で雰囲気が柔らかくなったユストゥスに、いつしかクラリッサの警戒心は解けていた。 「こんなところにいらっしゃいましたか、旦那様」  と、クラリッサとユストゥスに近付く人影があった。  見れば、貴族の従者といった格好をした五十がらみの男だった。 「お一人で黙っていなくなられるのは、おやめくださいと申し上げたばかりでしょう。先刻も、騒ぎを起こされていたようですが。何かあったら、如何(いかが)なさるおつもりですか」  白髪交じりの、厳格そうな顔をした男を前に、ユストゥスが首を(すく)めながら言った。  「俺も、鍛えていない一般人に(おく)れを取るほど軟弱ではないぞ、じいや」 「大体、そんな民草のような格好で出歩くなど……貴族たるもの、威厳と気品を……」 「堅苦しい格好では、街中で目立つだろう?」  もはやクラリッサは蚊帳の外といった状態で、二人のやりとりを呆気に取られ眺めていた。 「……ところで、そちらの女性は? 服装からすると、貴族のご令嬢のようですが」  「じいや」がクラリッサに目をやった。 「破落戸(ごろつき)どもに絡まれていたんだが、事情があるらしくてな。今、聞き出そうとしていたところだ」  ユストゥスは答えてから、クラリッサのほうへ向き直った。 「こんなところでは話しにくいか。疲れているようだし、うちの別邸へ行こう」 「あの……」  クラリッサは、おずおずと口を開いた。 「ユストゥス様も、貴族の方なのですか?」 「ああ。モルゲンシュテルン家と言えば分かるかもしれないが、今は、俺が当主をやっているところだ」  ユストゥスが、事もなげに答えた。  モルゲンシュテルン家と聞いて、クラリッサは、はっとした。  それは、他国と接する国境付近の防衛を任された「辺境伯」の家名だった。
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