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引っ越し
そのあと、隣の「こうりやま」さんには会うことはなかった。
こちらもポストに「チケット、ありがとうございました」とメモ書きを入れておいたけど、読んでくれたかどうかは分からない。
そしてある日、また隣にバタバタと引っ越し屋が来てて荷物を運んでいるのに気が付いた。ポストを見たら手紙が入ってた。
「短い間でしたが、お世話になりました。仕事で海外に行くことになったので引き払うことになりました。またいつかお会いできたら。」と書いてあった。
結局、「こうりやまさん」に会ったのは引っ越し挨拶の時とゴミ出しをしていたときの2回きりだったな。
そんなことを思っていたら点けっぱなしのテレビから「トボガン滑り」という言葉が聞こえてきたので、はっとした。
南極かどこか、雪で真っ白のところにペンギンが列を作って歩いていく動物ドキュメンタリー番組のようだった。
『こうやってペンギン達は歩いたりトボガン滑りをしながら、目的地に向かって行きます。』
なんかそんなナレーションだった。映像を見て「トボガン滑り」が腹ばいになって滑っていくことだと理解した。
ああ、カップ麺食べてるときに話題が無くて会社のことを聞いたら、そういえば氷のコンディションは体を張ってるので、わが社は大きな大会では必ず最後の仕上げを任されてるんですって言ってたな。単なる比喩かと思ってたけど、文字通りあの体勢で氷をチェックしてるんだとしたら確かに「身体を張ってる」。
そういえば、もうじき冬のオリンピックが開催するんだっけ。どこの国だったか知らないけど、きっと「こうりやまさん」がスケートリンクの上をトボガン滑りで氷の状態をチェックをしているんだろう。
「特殊技術職」って肩書に書いてあったけど、まさにそうなんだろうな。それでアイスショーの切符も特別な席のを貰ってたのかもしれない。一種のボーナスみたいなものだろうか?
同僚の子とはお茶や食事をしているうちに「もってる男」認定されてしまって、貰ったいきさつもゴミ捨てを手伝ったというのも良かったらしい。おかげでホテルチェーンのオーナーのじいちゃんにに気に入られて、実はホテルに転職したんだ。俺のような庶民レベルが泊まれるホテルじゃないけど、裏方の仕事ならということで絶賛研修中の身だ。
あの後、アパートの隣の部屋はずっと空いたままだ。ドアの前を通るたびに、あれは本当のことだったのかなと思うこともある。貰った名刺も、どこかにしまい込んだのか捨ててしまったのか見当たらない。
でもスケートリンクの映像を見たり、ペンギンの動画が目に入るたびに思い出すのは、水で戻したカップ麺をすするペンギンの姿。
あれ以来、俺も水でもどして食べるというのをたまにやって見てる。暑いときにはちょうどいい。ひそかにペンギンラーメンと呼んでいるんだ。
これは、俺とこうりやまさんのナイショの食べ方と思ってる。いまも世界のどこかで仕事をしながら、水で戻したカップ麺を食べているんだろう。
こうりやまさんに、またどこかで会えたらいいな。
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