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それまで感じていたはずの重力がまるで嘘のようになくなり、私の体は地面に向けて落ちていく。そのスピードは私が思っていたよりも随分遅く感じられた。
そして下腹部にきゅうっと力を込めたその時、
「那由多さん!」
神楽君の両手が、私の右手を力強く掴んだのだ。私の体は足をぶらりと垂らしたまま、宙に留まる。手首が脱臼するんじゃないかと思ったけれど、私の腕は私の全体重を支えられるほどの強度をもっていたらしい。
「那由多さん、左手、伸ばして!」
「嫌よ」
私は即答してやった。
「私を助けたかったら、魔法を使いなさいよ」
「な、何言って――」
「神楽君、私のことが好きなんでしょ? だったら魔法でも何でも使って私を助けて見せてよ! じゃないと、私このまま落ちて死んでやるから!」
実は前から思っていたのだ。学校から飛び降りて死んでしまえば、こんなつまらない世界から抜け出す事が出来て良いかも知れないって。
別に虐められてる訳じゃないし、親から虐待を受けてるって訳でもない。ただ、漠然としたこの世界、いや、私のこれからの人生を思うと、何が楽しいのか解らなくて、自分の将来すらどうでも良いような気がしてながらなかった。
死にたいわけじゃない。
けど、生きていたいわけでもない。
だからこれは私にとっても賭けなのだ。
神楽君が実際に魔法使いで、魔法か何かで私を助けてくれたら私の勝ち。だけど、神楽君が本当に普通の人間で、私を助けられなければ私の負けなのだと。
これは、私のこれからを賭けた大勝負なのだ。
「そ、そんなこと言われたって!」
神楽君は顔を真赤にして、必死に私を引き上げようと頑張っていた。だけど、どう考えたって神楽君に私を引き上げるだけの力があるとは思えなかった。もちろん、私の体重が重いわけではない。私の体重は五十キロ未満。普通の男子なら軽々持ち上げられる……はず。
「ほら、どうしたの、助けなさいよ」
あんたが魔法使いなら私の勝ち。
あんたが普通の人なら私の負け。
好きな人に見取ってもらえるのなら、それもそれで良いしね。
目の前で死なれたほうは叶わないかもしれないけど。
「那由多さん! お願いだから左手を!」
「なんで? あんたが魔法を使えばそれで終わる話じゃない」
私は言って、わざと足をばたばたして暴れて見せた。
それだけで私の体全体が揺れて、神楽君が手を離しさえすれば、すぐにでも地面に向かって落ちてしまいそうになる。
「あ、暴れないで!」
「じゃぁ、いい加減に魔法を使ってよ」
そして私に、この世界には科学でも説明できないものがあるんだと証明して見せてよ!
だけど、神楽君は顔を真赤にして困ったような表情で私の右腕を掴んだままだった。
なんだかもう、どうでも良くなってきて、私は。
「そう、やっぱり神楽君も普通の人だったんだね。私が見てきたのは、全部幻。想像で妄想。だったらもう、こんな人生、どうでもいいや!」
私はさっきよりももっと激しく暴れてやった。
さぁ、その手を離しなさい。私はこんな世界に用はない。こんな夢も希望もない世界になんか生きて居たくないのよ。
それでも、神楽君は私の腕を放そうとはしなかった。
それどころか。
「ちょ、ちょっと那由多さん、落ちる! 僕も落ちる!」
神楽君の体までもが塀を越えてしまいそうになっていた。
あぁ、そうだ。好きな人と一緒に死ぬのも、悪くない。
私は思わずくすくす笑った。
ダメだなぁ、私って。
死のうとか考えてるくせに、やっぱり神楽君のことは大好きなまんまなんだから。
だったら、いっそのこと。
「一緒に死んで。神楽君」
「冗談じゃないよ! 僕はまだ死ぬわけにはいかないんだから!」
「あっそ。私一人を死なせるんだ。私たち、恋人同士じゃなかったの?」
「だから、助けようとしてるじゃないか!」
「ざんねん、私は魔法とか以外で助かる気はないわ」
言って私は、更に足をばたばたさせる。
そして――
「うわぁっっ!」
ついに、神楽君の体が塀を乗り越え、私たちは二人揃って地面に向かって降下を始めた。
地面までの距離はおよそ二十メートルくらいだろうか。こんなの、一瞬で落ちてしまうはずだと思っていたのに。体感速度は明らかに緩やかだった。
周りの景色がスローモーションになっているのが良く解る。時々テレビなんかでやってるけど、あれは本当のことだったのか。
なんてのん気に考えていると、突然目の前に神楽君の顔が見えた。
私は神楽君の顔をじっと見つめる。
さぁ、これで私の人生もおしまいだ。
好きな人と一緒に、つまらん世界とはおさらばよ。
そう思った時、神楽君が突然口を開いて、聴き慣れない言葉を口にした。
私には何を言っているのか解らなくて、ただその顔を見つめることしかできなかった。
なにそれ、呪文?
なんて思っていると、目の前に白く輝く玉が無数に現れて、私と神楽君の体をみるみるうちに包み込んでいったのだ。
ちょっと、なにこれ、マジ!?
さっきまで魔法がどうのこうのと言っておきながら、私は心底驚いていた。
こんなこと、ありえない。
夢? 幻? それともまさか、現実?
は、んなわけねぇ。
現実的に考えて見なさいよ。魔法とか精霊とか幽霊とか、そんな居るわけないじゃない。馬鹿だなぁ、私は。そんなもんを信じたくて、屋上から飛び降りて、助からなかったら私の負けとか訳のわからない賭けなんかやっちゃってさ。
おまけに、これよ。光り輝く玉。
どうやら私の頭は、本格的にどうかしてしまったみたいだ。
これってアレ? 臨死体験?
「那由多さん、ゆっくり行くよ」
神楽君が言って、私は、
「何言ってんのよ、あんた」
と返事する。
私たちの体は光に包まれたまま、ゆっくりと、地面に向かっていた。
やがて地面に足をつけるのと同時に、私たちを包んでいた光も霧のように消えてしまう。
「…………」
私は何がなにやらさっぱりだった。
なに、どういうこと? 私、助かったの?
思い、私はすぐ横に立つ校舎の屋上を見上げる。
確かに、私はあそこから飛び降りたはずだ。
「ちょっと、神楽君」
今だに私の腕を掴んだままの神楽君は、
「な、なんだよ」
と訊き返してくる。
「あんた今、何したの?」
「何って……魔法だよ」
「なに言ってんのよ、あんた。馬鹿じゃない?」
「は?」
神楽君は眉間に皺を寄せ、
「那由多さんが使えって言ったんじゃないか」
「何を」
「魔法を」
「誰が」
「那由多さんが」
「何で」
「何でって……」
私は頭を抱える。どういうこと? 何? 魔法? マジで?
「神楽君、本当に魔法使いだったの?」
「――そうだよ、那由多さんの疑ってたとおりね」
「もしかして、あのおばあちゃんも」
当然、魔女なのだろう。
「頼むから、このことはばあちゃんには内緒にしててくれよ。人前で魔法使ったのがバレでもしたら、俺、破門どころかトカゲか何かに変えられちゃうかもしれないから」
魔法使い。魔女。そんなのおとぎ話じゃないの?
「それにしても、那由多さんはやっぱり強引過ぎるよ。もともとそういう性格なのかもしれないけど、僕が魔法を使えるかどうか試すためにわざわざ屋上まで行って、飛び降りちゃうんだもの。もしも僕が魔法使いじゃなかったり、魔法使いでも風すら操れないやつだったらどうするんだよ。それこそ死んでたかもしれないんだよ?」
そんな事はどうでも良かった。
神楽君が、ホントに魔法使いだったそのことに驚きだ。
しかし、だとしたら、もしかして……
「あのさ、神楽君」
「なに?」
「昨日おばあちゃんに怒られた理由、教えてよ」
「えっ?」
と神楽君は目を丸くし、あたふたと慌て始める。
「いや、それは言えない。絶対に!」
「あぁ?」
と私は神楽君に詰め寄ると襟首を掴み、
「吐け」
命令する。
「だ、だって、絶対に怒るに決まってるし」
「怒るような、何をしたの?」
「いや、それは――」
私には何となく解っていた。
朝、神楽君がくれた、おばあちゃんからのクッキー。
あれを食べた後、神楽君は私に「僕の事、どう思う」と訊いてきた。
それに対して私が答えた、「男らしくない」への反応。
泣き出しそうな顔に、ため息。
おまけに、あの屋上で「朝のクッキー食べたよね?」という台詞。
これから想像してみるに、こいつは。
「私に、何かしたんでしょ」
「いや、だから」
「魔法といえば、やっぱりアレもあるんでしょ?」
「アレって……?」
「惚れ薬みたいなのよ」
私のその一言に、神楽君の顔が引きつる。
こいつめ、やっぱりそんなものを!
でも、いったいいつの間に?
「いつ、私に飲ませたの?」
「あ、あぁ、ああああ」
この慌てふためき様。
人の感情を弄ぶだなんて、許せない。
「ほら、答えなさい!」
「ご、ごめんなさい!」
「謝らなくて良いから、答えて」
神楽君の襟を掴んだままで、私は顔を思いっきり近づける。
「えっと……四日前の、お昼に」
「四日前? どうやって私に飲ませたの?」
「な、那由多さんが席を外した隙に、机の上に置いていったお茶の中に、こっそり」
――殺してやろうかしら。
私は本気でそう思った。
だけど。
「……本当に四日前に?」
「う、嘘じゃないよ! きっちり四日前、那由多さんに使っちゃいけない、高濃度の薬を使ったんだ。それが昨日ばあちゃんにバレて、昨日散々怒られたんだ。朝のクッキーは、その薬を中和させて効果を無くす薬が調合されたやつだったんだよ」
「ふうん」
私は神楽君の襟から手を離すと、神楽君に背を向け、二、三歩離れる。
って事はだ。
「なぁんだ。良かった」
「へ?」
神楽君が、気の抜けた声を出す。
「べつにそんなもん、使わなくても良かったのに」
「は?」
「私はね、神楽君」
そこで私は、できるだけ感動的な演出を心がけながら、髪が風になびくように神楽君の方へ振り向いて、
「君のことが、入学初日から気になってたんだから」
「嘘だ」
即答されて、私は気が抜けた。
おうおう、折角感動的な演出をしてやったのに、それかい。
私は頬を膨らませ、
「嘘って何よ」
「たぶん、まだあの薬が効いてるんだよ。そうとしか思えない」
「まさかあんた、入学初日に居なかったんだから、とか言わないわよね?」
「言わないよ、ちゃんと居たもん。でも、こんな僕なんかを気にするわけがない」
な、なにこいつ。なんてネガティブな考え。もうちょっと前向きに考えられないわけ? 漫画やなんかだったら、こういう時ってかなり感動する場面だと思ってたんだけど?
「あんたねぇ、折角私が告白してるのに、それを勝手に否定するわけ?」
「だって――」
「黙りなさい!」
なんだか腹立たしくて、ムカついて、私は彼の言葉を一蹴してやる。
「いい? 私は最初からあんたが好きだった。そう言ってんのが信じられないの?」
「信じられないよ、そんなの」
あぁ、なんだろう、こいつを見ているとむかむかしてくる。
私はもう一度彼に詰め寄ると襟首を掴み、
「むぅ!?」
有無も言わさず、神楽君にキスしてやった。
三度目のキスだ。
神楽君は驚いた様子で、空いた手で私を突き離そうとするが、私はそれに構わず神楽君の体に腕を回し、抱きしめながら更に強く彼の唇に私の唇を押し付けた。
顔を真赤にして暴れる神楽君。
「ぷはぁ!」
と私が漸く神楽君を自由にしてやると、神楽君は大きく息を吸い、
「な、なななな、やっぱり、まだ薬が効いてるんだよ」
「いい加減にしなさい!」
私は神楽君の体をもう一度押さえつけると、さらにキスをしてやった。
これで四度目。五度目は首筋にでもしてやろうかしら。
神楽君は私の体を突き離すと、
「わ、わかった。わかったからもう辞めてよ、恥ずかしいじゃないか」
惚れ薬とか使っておきながら、今さら恥ずかしいも何もあるものか。
私だったら大丈夫。ちっとも恥ずかしくない。
って、これが薬のせいなのかも?
神楽君は大きなため息を一つ吐いて、
「ばあちゃん、薬の調合間違えたのかなぁ。そんな訳ないよなぁ」
そう呟いた。
「まだ言うつもり?」
「あ、いや、違う、違うんだよ」
途端に慌てる神楽君。
やっぱり、面白い奴だ。
「あ、そう言えば忘れてた」
「な、なに?」
「神楽君の、将来の夢は何?」
神楽君の口を割らせる事に気がいっていてすっかり忘れていたけれど、本当は一番これを訊きたかったのだ。長い道のりだったなぁ。
「夢? 突然そんなの訊いて、どうするの?」
神楽君が聞き返してきて、私は語気を強めながら、
「良いから答えなさい」
「そ、そりゃぁ、ばあちゃんみたいな立派な魔法使いになる事だよ」
「……そっか」
私は腕を組み、考えた。
今この状態、私にはやりたい事が何一つない。夢も希望もありませんって感じ?
世界は社会常識に縛られていてつまらなそうだし、このまま普通に大学に行って普通に就職、そして普通に結婚して子供産んで育てて死ぬ、なんて何だか嫌で嫌でたまらなかった。
だったら。
「じゃぁ、私も魔法使いになる」
「はぁ!?」
神楽君が、驚きの声を上げる。
「な、何言ってんの、那由多さん?」
「私も、魔法使いに、なるって言ったのよ。あんた耳悪いんじゃない?」
「そんな、だって……」
「私より成績悪いあんたなんかより、私の方がよっぽど有能だと思うけど?」
「いや、まぁ、それはそうかも――じゃなくて、ばあちゃんが許してくれないよ!」
「あら、そんなの頼んでみないと解らないでしょ?」
「ほ、本気?」
「本気も本気。大マジよ」
はぁ、と神楽君はため息をついた。
それに構わず、私は言った。
「それじゃぁ、今からおばあちゃんに頼みに行きましょ」
「え、今から!? 学校は!?」
「そんなの、つまらないからどうでも良いわ」
「どうでもって、」
「ほら、行くわよ。神楽君!」
私は一人、校門に向かって走り出した。
なんだか、これからのことが面白そうでたまらない。
「ちょ、ちょっと待ってよ、那由多さん!」
神楽君も、駆け足で私のあとを追ってくる。
私は走る。とにかく走る。どんどん走る、走り抜ける。
これからどんなことが待っていようとも、私はこの『夢』だけは諦めない。
私は絶対に、神楽君より立派な魔法使いになってやるのだ!
私は大きく笑いながら、ジャンプした。
……魔法使いの少年(了)
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