第2章

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   2  楸さんが残したうどんを食べるか否かってのは、とても重要な問題だった。  僕の方に寄せてきたってことは、あとはよろしくってことなんだろうけれど、その残りをもったいないと判じて食すか、それとも正直に捨てるかで僕は散々迷いに迷った。  結局『もしまた何か仕込まれていたら』という危機感から学食のおばちゃんに「ごめんなさい、残しました」と謝りながら返却口に戻したのだけれど、今から思えば食べておいてもよかったかな、と何となく後悔の念がふつふつと沸き上がっていた。  あれから僕は教室に戻り、午後の授業を受けていたのだけれど、楸さんは五時限目が終わるまで戻ってこなかった。  六時限目の始まる直前に、僕が今まで見た中で一番不機嫌な顔をして戻ってきた楸さんだったが、彼女は六時限の間中、机に突っ伏したまま教科書やノートすら出そうとしなかった。  それからすべての授業が終わり、クラスメイト達がそれぞれ帰宅や部活の準備をしている中、僕は楸さんの机まで行くと、 「……大丈夫?」  と声を掛けた。  忘却薬を飲まされそうになったり、死の呪いを掛けられたりと、割と酷い目に遭わされている僕だったけれど、何となく気落ちして見える楸さんを見ると心配せずにはいられなかったのだ。  ところが楸さんは僕の方に顔を向けることなく、帰宅の準備をしながら、 「今、私に近づかないでください」  と低い声で、吐き捨てるようにそう言った。  それから眉間にしわを寄せながらちらりと僕の顔をひと睨みすると、そのまますたすたと教室から出て行く。 「え、あっ……」  僕はその後ろ姿を目で追うことしかできなかったのだけれど、何となく放っておけなくて、慌てて鞄を引っ掴むと廊下に出て、脱靴場へ向かった。  自分でも何をしようとしているのか解らなかった。  近づくな、と言うのだから放っておけばいい。  だけど、僕には放っておくことなんてできなくて。  大急ぎで靴を履き替え、外に出る。  辺りを見回して楸さんを探したのだけれど、どこにも彼女の姿は見当たらなかった。  もしかして、昨日置いて帰った箒に乗って空を――  そう思い、空を見上げる。  くるりとその場で一回転したところで、 「……あれは」  今しがた出てきた第一校舎、その屋上。  そこに、一つの人影があったのだ。 「楸さん?」  本来屋上は鍵がかかっていて入れない。  そこに人がいるってことは、もしかしたら楸さんが箒で上まで昇って……でも、何のために?  何となくその人影をじっと見つめ続けて、やがて違和感を覚える。  違う。楸さんじゃない。  あれが楸さんなら、もっと長い髪をしているはずだ。  屋上のあの人影は、もっとずっと短い髪型だ。  あの人はいったい――?  もっとよく目を凝らそうとして、そこで不意に人影が奥へと引っ込んで見えなくなった。  僕は上を見続けて首が痛くなったのもあって、視線を下に戻した。  首筋をさすりながら、首を傾げる。  何だろう、あの人はどうして屋上になんかいたんだろう。  まさか、自殺なんてことは――  いや、それはないか。そんな雰囲気じゃ全くなかった。  ちゃんとフェンスの向こう側にいたし、或いは用務員のおじさんが屋上の点検をしていただけってこともありうる。  いや、むしろそう考える方が普通だろう。  そうだ、そうに違いない。  だけど。  僕はもう一度屋上を見上げながら、胸に手を当てた。  なんでこんなに、もやもやするんだろうか。  帰宅後、僕は食事とお風呂を済ませると自室の机に向かい、昨日書庫から持ってきた本に再び目を通していった。  今日の僕は昨日とは違い、ただ純粋に『魔女』について知りたいと思っていたのだ。  楸さんは魔女だ。それはたぶん、もう間違いない。  箒で空を飛び、不思議な魔法で先輩たちを叩きのめし、怪しげな薬で牧田くんの記憶を消して見せた。挙句僕に死の呪いを――  でも、そもそも魔女って何なんだ?  そんな疑問が僕の頭に浮かんできたのである。  パラパラとページをめくり、その序文に目を通す。  そこにはこう書かれていた。    ***  魔女、というと想像されるのは森の奥深くに住む鷲鼻の老女だろうか、それとも何がしかの使命を課された少女たちだろうか。  いずれにせよ、現代における魔女とは魔法を使いこなす女性の事を差す言葉である。  しかしながら、この魔女を意味する英語witchや独語Hexeには明治維新以後、『魔女』以外にも様々な訳語があった。 『巫女』(『百科全書』薗鑑訳「北欧鬼神誌」より 悪魔と交わり妖術を使う) 『鬼婆』(一九〇一年、『日本之小学教師』「一太郎とおすみ(ヘンゼルとグレーテル)」など) 『妖婆』(一九一〇年、新渡戸稲造編訳『ファウスト物語』など) 『女魔法師』(一八八七年、集成社 高橋幾次郎訳『西洋神断裁判』 魔女裁判など) 『魔女(まつかいおんな)』(一八九一年、博文館 渋江保訳『西洋妖怪奇談』 グリム童話など)  これらが数十年の時を経てやがて我々の良く知る『魔女(まじょ)』に統一されていったのである(実際のところwitchもHexeも女性に限定されず、男性の事も指すがここでは割愛する)。  つまるところ、日本にはいわゆる西洋のそれにあたる『魔女』など存在しなかったのである。    ***  ……だとしたら、楸さんはいったい何者なんだ?  どう考えたって絵本やファンタジーで見かけるような魔法を使っているのに、そもそも日本に『魔女』など存在していなかったとはどういうことなのだろうか。  或いは明治維新後に、日本でも魔女や魔法使いと呼ばれる存在が現れ始めたとでもいうのだろうか。  ――よくわからない。  僕は一度その本を閉じ、今度は『まじないの歴史』と題された本に手を伸ばそうとしたところで、 「……あれ?」  積み上げた本の間に、やたらボロボロの古書が混じっていることに気が付いた。  背表紙には例のどこの国の言葉かわからない文字が書かれているが、擦れによってなおのこと判別しづらくなっている。  たぶん、昨日慌てて持ち出してきたから、うっかり持ってきてしまったのだろう。  これだけボロボロだと、むしろ価値の高い代物なんじゃないだろうかと思わせる一品だ。  いったい何が書かれているんだろう。  そう思いながら、僕はページが破れないよう、慎重にめくっていった。  その文字は象形文字のようでもあり、漢字のようでもあり、どこか平仮名や片仮名にも近く、どうかすると子供の描いたただのいたずら書きのようでもあった。  つまり、何が書いてあるのか、やっぱり、さっぱり、わからなかった。  父さんも母さんも、何を考えてこんなものを買ったんだか……  何だか訳の解らない挿絵まであって、これじゃぁまるで、かの有名なヴォイニッチ手稿か何かのようだ。  もしかしたら、どこぞの古本屋に言い包められて買っちゃっただけの贋物かなんかじゃないだろうな? 「ま、いっか」  僕は呟きながら、積み上げられた本の一番上にその偽ヴォイニッチ手稿を投げ置いた。  それから大きなあくびを一つして、目をぱちぱちさせる。  そう言えば、昨夜はまともに眠れたような気がしなかった。  今日はもう、早めに寝てしまおう。  僕は部屋の明かりを消し、ベッドの中へと潜り込むのだった。  かさり、と音がした。  その音で意識が戻り、ゆっくりと瞬きする。  カーテンの隙間から差し込む、街灯の光。  その灯りに照らし出された薄暗がりの部屋の中、再びかさり、と音が聞こえる。  音の出所に意識を向けると、そこには僕の机の前に立つ人影があって。  ……誰だろう。父さんか母さんだろうか。  こんな時間に? 僕の部屋に?  あぁ、そうか。書庫から持ち出した本、あれを取りに来たのか。  明日、もしかしたら怒られちゃうかもな。  僕が唯一両親から怒られるのは、持ち出した本をなかなか書庫に戻さないこと、それだけだ。  僕はうとうとしながらその人影に目を凝らして―― 「あれ? 楸さん?」  思わず、そう呼んでいた。  僕の声に、はっと振り返る楸さん。  そして。 「――っ!」  ぱっと目を覚ますと、朝だった。  どこも変わらない僕の部屋。  机の上には昨日そこに置いたように、書庫の古本が積み上げられていた。 「……なんだ、夢か」  僕は上半身を起こし、大きく伸びをひとつする。  そうだよな、いくら楸さんでも、勝手に他人の家にまで忍び込んだりはしないよな。  ……。  ………。  …………。  本当に? 絶対に?  いや、あの様子だと勝手に他人の家に忍び込んでも不思議じゃない。  むしろ普通にやらかしそうな気がしてならず、僕は何となく机の方に足を向けて、 「……嘘だろ?」  机の上に落ちる、一本の長い髪の毛を見つけたのだった。
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