第3章

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   4  真帆もこんな顔をすることがあるんだな、というのが僕の正直な感想だった。  実のところ、あんな読めもしないただ古いだけの本にあまり価値を感じていなかった僕なのだけれど(但し両親に怒られるかもという恐怖はわずかながらにあった)、真帆の様子を見ると、思いのほか貴重な書物だったらしいことだけは何となく想像がついた。  ただ、無くなってしまったものは最早どうしようもないし、あの騒ぎの中で誰が持ち去ったのかなんて解るはずもないのだから、責める気すら僕にはない。  それでも真帆は、二人並んで下校中、終始項垂れた様子だった。  時折ため息を吐いては「ごめんなさい」と口にして、どんなに話題を振っても「そうですね」としか答えない。  入学して一緒のクラスになって早数か月。  まともに口を利くようになってからはまだ数日しか経っていないけれど、あの真帆がこんなに落ち込むところを見たのは初めてだった。  最初はやけにムスッとした顔の、美人ではあるけど変な子だなって思っていたが、こうして話をするようになってからは、予想に反して感情の起伏の激しい子だってのは何となくわかってきた。  しかし、コロコロ変わるその表情に、正直なところ、どれが本当の真帆の姿なのかまではまだ僕にもわからない。  とはいえ、この落ち込みようは間違いなく本物で、たぶん、根は優しい良い子なんじゃないかと思うと、逆にどう声を掛ければいいのか全然わからなかった。  会話らしい会話のないまましばらく歩き、やがて三叉路に出たところで、真帆は無言で自宅方面へと右に曲がった。  僕の家はこの反対、左の道を進んだ先だ。 「じゃ、じゃあね、真帆」  一応、声を掛けたけれど、真帆は返事をすることなく、とぼとぼと去っていくだけだった。  帰宅するなり、母さんに怒られた。  数日前から持ち出していた本を戻していなかったことがバレたのだ。  幸いにも紛失した魔術書の事は何も言われなかったけれど、もし気づかれた場合にどう言い訳すればいいのかわからない。  まぁ、あんな本なんてそうそう読まないだろうからすぐにはバレないだろう。  夜遅くに父さんが帰ってきて、そのまま書庫に向かうのを見てハラハラしたが、けれどバレた様子はなかったので、とりあえずは一安心。  夏に向けてだんだん気温が高くなってきたこともあって、今日は軽くシャワーを浴びるだけにした。  それから自室に戻って読みかけていた小説を数ページ読み進めたところで、睡魔に襲われた。  このまま眠ればまた真帆の夢が見れるかも、なんてわずかに期待しながら眠りについて――  朝が来た。  清々しい朝だった。  これほどまでに気持ちの良い朝はいつぶりだろうか。  ぐっすり眠れたおかげか、身体が妙に軽い。  やはり体を休めるには睡眠が一番なんだな、と思いながら、ふと目覚まし時計に目をやって。 「――えぇっ!」  午前十一時半。  あまりの衝撃的事実に、またベッドから転げ落ちそうだった。  そう言えば、目覚ましをセットした覚えがない。  これだけ寝れば、そりゃぁ、スッキリもするわけだよ!  大慌てで飛び起きて制服に着替え、リビングへと向かう。  自室のある二階から一階へ下りるとき、思わず段を踏み外しそうになって、よろめきながら手すりを掴んだ。 「あ、あっぶな――」  と独り言ちたところで、 「あっははは。へぇ、そんなことがあったの」 「そうなんですよ! 私、おかしくってついつい――」  一階のリビングから聞き覚えのある声がして、僕は頭の中に大量の疑問符を浮かべながら、抜き足差し足で階段を下りた。  それから短い廊下を抜けて、リビングを覗いたところで、 「あら、ずいぶん遅かったわね」  と母親が顔を向けてくる。  その隣で、 「なんで制服なんて着てるんですか? ぷぷっ!」  と馬鹿にするように噴き出し笑いしたのは。 「ま、まま、ひ、ひさ、ほ、さん?」  まさか家の中でその姿を見ることができるだなんて思いもせず、加えて付き合っているというのは学校内での設定だというのを考慮し、けれどこれがもしかしたら夢かもしれないという思いから、結局どう呼んでいいのか解らずあたふたする。  真帆は薄手の白い長袖シャツに紺色の長いスカートを穿いており、いつも見る制服姿とは対照的に、なんだかすごく大人っぽい雰囲気だ。  たぶん、化粧のせいもあると思う。  そんな真帆の別の姿に、内心ドキドキしながら僕は部屋に入る。 「今日は土曜日、学校はお休みですよ。シモハライくん?」  にやにやしながら言う真帆の隣で、同じくにやにやしながら僕を見る母さん。  これは、いったい、何が、どうなっているんだ?  え、夢? もしかして、また夢でも見てるのか? 「大丈夫、優? まだ寝ぼけてるの?」  それとも、と母さんは嘲るように、 「可愛い彼女が自分の家にいて驚いた?」 「え、か、かの、えぇっ……?」 「あっはははは!」  と母さんは大きく笑って、 「まさかあんたに彼女ができてたなんて、お母さんビックリしちゃった! あんたにはもったいなさ過ぎるくらいに可愛い子じゃない!」  その隣でくすくす笑う真帆の姿に、僕はもう何が何だか思考が追い付かなかった。  だから、結局、いったい―― 「な、なに? どういうこと? なんで、ひ、楸さんがうちにいるわけ?」 「謝りに来てくれたのよ」 「あ、謝りに?」 「あんたが勝手に持ち出した古書があるでしょ。あれを失くしてしまったからって、お詫びにお土産まで持ってきてくれたのよ? いい子じゃない。黙ってしれっと誤魔化そうとしたあんたとは大違いね」  ねぇ? と変に嬉しそうな笑みを浮かべながら、母さんは真帆に声を掛ける。 「いいえ、とんでもないです。私なんて――本当に申し訳ございませんでした」 「いいのいいの! そんなに何度も謝らないで! むしろこんなに可愛い子がうちに来てくれてすっごく嬉しいわ!」  そのとき、カチリ、という小さな音が聞こえたような気がした。  次の瞬間、家の電話がけたたましく鳴り響く。 「あぁ、はいはい」  と電話に出る母さん。  しばらく何事かを話していた後、受話器を戻してこちらを振り向き、 「ごめんなさい、ちょっと仕事で呼び出されて。今から留守にするけど、ゆっくりしていってね」  言って慌ただしく身支度を始める。  それから家から出て行こうとしたところでリビングに顔を出し、 「じゃあね、行ってきます。優、真帆ちゃんに変なことしちゃダメよ?」 「し、しないよ!」  あはは、と笑いながら出て行く母さんに、僕は言い返した。  ばたん、と締められる玄関扉。  それを確認してから、真帆は途端にすまし顔になる。 「――さて、本題に入りましょう」 「本題?」  僕は首を傾げながら、真帆の向いの席に腰をかけた。 「そうです。誰があの魔術書を持っていったのか、それを調べます」 「どうして」 「あれは貴重な研究書なんです。あれだけ多分野にわたる魔法の研究をしている魔法使いなんて、そうそういません」 「そうなの?」 「はい」  と真帆は頷き、 「そもそも、魔法使いは自分の好きな分野はとことん突き詰めますが、そうでもなければ興味も示しませんし、学ぼうともしません。もし何かの拍子に興味を抱いても、根が飽きっぽいので長続きしないんです」 「……へぇ? でも、全員が全員ってわけじゃないんでしょ?」 「どうでしょう?」  真帆はわずかに首を傾げ、 「少なくとも、やる気に満ちた魔法使いなんて、私は会ったことがありません。皆さん、わりとのほほんとしているというか、マイペースというか。魔法って、元々楽をするために作られたって説があるんです。動きたくない、めんどくさい、誰か代わりにやってくれないかな。そんな感情から、様々な魔法が編み出されました。いわば、魔法は怠惰な心の結晶なんです」 「……怠惰」  その言葉に何だか魔法に対する印象が変わったような気がした。  殆どの本に書かれているのは、悪魔と契約して何たらかんたら、錬金術がなんたらかんたら――  まぁ、確かに怠惰ってのは、キリスト教における七つの大罪のひとつではあるのだけれど。  だけど、なんと言うか、悪魔と契約してって方が何となく響きとしてはかっこよかった気がする。  それがまさか、怠惰から始まった、なんて説があるだなんて。 「或いは、楽しい気持ちが魔法を生み出す、とも言います」 「楽しい気持ち?」 「そうです。魔法使いは何かを強制されることを嫌がります。自由を愛している、と言ってもいいかもしれません。例えば大昔、西洋で魔法使いを戦争に利用しようとした王様がいました。彼は知り得る限りの魔法使いを集めて小さな軍隊を結成しましたが――結局うまくいきませんでした」 「なんで?」 「人が死んでしまう戦争なんて、楽しくありませんから」 「魔法使いは人が死ぬのを嫌がる?」 「まぁ、人にもよるかもしれません。けれど、基本的に魔法使いは自由であるのと同時に享楽的で、その場の雰囲気が楽しくないと魔法がうまく発動しないんです。お祭りを想像してください。そのお祭りには大道芸や手品師がいて、色んな技を見せて人々を楽しませてくれるでしょう?」 「――うん」 「彼らの多くが、実は魔法使いなんです」 「……マジで?」 「マジです」  と真帆は頷き、 「私もです。魔法に対する興味はあるし、うまくなりたいとは思います。だけど、基本的に楽しくなければ魔法は使えないし、変にやる気を出しても、かえって失敗してしまう。興味のある魔法の実験はうまくいくのに、やってやろう! って意気込むと、途端にうまくいかなくなっちゃうんです。魔法使いって、たぶん、生まれつきそういうふうにできてるんだと思います」 「ふうん?」  魔法使いって、なんか何でもできそうなイメージだったけど、どうやらそうもいかないらしい。 「なので、あれだけの研究を行なった筆者は、相当な大魔法使いだったんだと思います。並々ならぬやる気があって、あれだけたくさんの魔法の研究をして。ただ、パラパラめくった感じだと、大半は失敗しているみたいでしたけど。魔法使いの性分なんでしょうね。それでもあの魔術書は、私たち魔法使いにとって、とても貴重なものだと私は思うんです」 「そんなにすごい本だったんだ……」  何となく感心しながら呟くと、 「そうです、すごい本だったんです。それを奪われたんですよ?」  真帆はそこで眉間にしわを寄せ、拳を握り締めながら、 「そんな私の魔術書を盗んでいくだなんて、絶対に許せません!」  と声高に宣言した。  僕は思わずぽかんと口を開け、しばらく真帆の顔を見つめていたが、 「――私の?」  何言ってんの、コイツ。 「いや、だからあれは、うちの両親の――」 「何言ってるんですか? シモフツくんは私の彼氏ですよね?」  驚いたような表情で口にする真帆に、 「……という設定でしょ?」  僕は改めて確認する。  けれど真帆はにやりと笑んで、 「あ、それでしたら、先ほど本採用に決定しました」 「――は?」  え、なに? どういうこと? 「実はシモフツくんが寝ている間に、お母さんに本の部屋を見せていただいたんです」 「書庫のこと?」  母さん、あんなところまで真帆に見せたのか? 「はい。あれは大変貴重です。お宝の山です。他にも魔女文字で書かれた本が、何冊もありました」 「へぇ、そうなんだ」  それは、気づかなかったなぁ。 「――で、どういうこと?」 「シモフツくんは私の彼氏です。その彼氏の本は、同時に彼女である私の本でもあると思いませんか?」 「はい?」  いよいよ何を言っているのか解らない。 「私の本は私の本、シモフツくんの本も私の本。そういうことですよ」 「…………」  もはや開いた口が塞がらなかった。  なんだ、そのジャイアニズムは。 「いや、それは――」 「異論は認めません」  ぴしゃりと言って、真帆は僕の顔を覗き込み、 「私の彼氏はシモフツくんで、シモフツくんの彼女は私です。いいですね?」 「は、はい――」  息のかかるような距離で言われて、僕も断るに断れなかった。  いや、そもそも僕に断るなんて選択肢はないし、その選択肢も提示されなかった。  これは……喜んでもいい――のか? 「あ、でも、勘違いしないでくださいね」  と真帆はすっと立ち上がり、くるりとこちらに体を向けると、 「私が欲しいのは本だけです。男に興味はありませんので、そのつもりで」  改めてそう言って、意地悪な笑みを浮かべたのだった。
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