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第2章
1
楸さんの数歩後ろを遅れて歩きながら上った長い坂道。
その先の学校に辿り着くと、一時限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いていた。
脱靴場で上靴に履き替え、教室に向かうべく廊下に出たところで、ふっと目の前を見覚えのある女子が横切っていった。
思わずそちらに目を向けると、昨日もカウンセラー室にいたあの上級生の女の子が、今まさに階段を上がろうとしているところだった。
切れ長の眼にスッとした鼻筋、引き結ばれた唇。やや大きめの耳にかかった茶色いミディアムショートの髪が特徴的で、身長も高い為か異様に大人っぽい雰囲気だ。
彼女もどこか楸さんと似たようなところがあって、カウンセラー室で挨拶をしても視線を向けてくるだけで常に無視。いつも一人で校内を歩いていて、こちらは一匹狼といったイメージが僕にはあった。
たぶん、いつものようにカウンセラー室から教室に戻る途中なのだろう。
彼女のことは実は僕もよく知らない。
上靴のラインの色から二年生ってのはすぐに判ったのだけれど、どこのクラスのなんて名前の先輩なのかまでは訊いたこともなかった。
もしかしたら、あの人なら楸さんと気が合ったりするんじゃないかな、と何故かそんなことを考えていると、
「なにしてるんです? シモフツくん」
先を行く楸さんが振り向いて言った。
「え、あ、ううん。なんでもない」
僕はそんな楸さんのところまで駆け寄り、
「と、ところでさ、昨日から言おう言おうと思ってたんだけど……」
「はい、なんですか?」
二人並んで歩きながら、楸さんは首を傾げる。
「僕、シモフツじゃなくて、シモハライなんだけど」
「あら、そうなんですか、シモフツくん」
澄ました顔でなおシモフツと呼ぶ楸さん。
「いや、だから、シモフツじゃなくて――」
「いいじゃないですか、シモフツくんで。ニックネームですよ、ニックネーム」
「いや、まぁ、別にいいけど……」
初見でちゃんと読んでくれる人って少ないから、慣れてはいる。慣れてはいるんだけれども、何となく納得しかねるのはきっと、この読み辛い我が苗字に多少なりとも愛着があるってことなんだろう。
「――あぁ、そうですね」
楸さんは何かを思いついたように口にして、
「なら、私のことも苗字じゃなくて、真帆って下の名前で呼んでください。学校の中では付き合っているって設定で行くので、その方がより自然でしょう?」
ね? とこちらに笑顔を向けてくる楸さん。
昨日からちょいちょい思ってはいたんだけど、楸さんも普通に笑えるんだよな。あんな普段みたいな澄ました顔や時折見せる怖い顔じゃなくて、いつもこんなふうに微笑んでいればいいのに――
「……うん、わかった」
僕はそう思いながら、小さく頷いたのだった。
楸さんに続いて教室に入ると、一斉にクラスメイト達の視線がこちらに向けられた。
これだけはどうしても慣れない。そんないちいち振り向いたりしなくても、そろそろお前らもスルーするくらいには慣れてくれよ、と思わずにはいられなかった。
僕や楸さんが遅刻してくるのはいつものことじゃないか。
そんな僕とは対照的に、楸さんはクラスメイト達からの視線に臆することなく、自分の席へとすたすた歩いて行った。まるで鉄のメンタルである。私は私の道を行く、まさにその典型のように思えてならなかった。
僕もこそこそと自分の席へ向かおうとして、ふと気が付いた。
牧田くんの席が空いているのだ。
あの、何の毒|(薬?)を盛られたかわからない紅茶を飲んでぶっ倒れた牧田くん。
はたして彼はあの後どうなってしまったのだろうか。
楸さんは「すぐに目を覚ましますよ」なんて言っていたけど、もしかしてまだぶっ倒れたままとか? 或いはじつは本当に毒が盛ってあって今頃は、
――ガラガラガラ
教室のドアがスライドする音がして、僕は他のクラスメイトたちと同じようにそちらの方に顔を向けた。
……なるほど、これは確かに顔を向けてしまう。多分、反射的行動なのかもしれない。
と何となく人の行動心理に思いを馳せていると、そのドアをくぐって入ってきたのは、なんと件の牧田くんその人だった。
牧田くんはどこか怯えた様子でクラスメイト達を見渡すと、何故かびくびくしながら一つだけ空いている自分の席へと歩みを進めた。
どうしたんだろう、昨日のような勢いや元気が全くない。
まるで初めてくる場所に緊張する子供みたいだ。
思いながら、僕はふと楸さんへ視線を向けた。
楸さんはそんな牧田くんの様子を眺めながら、何かを小さく呟いた。
その口の動きから察するに、それはたぶん。
「――ま、いっか」
「たぶん、調薬するときに薬草の量を間違えちゃったんだと思います」
楸さんがそう告白したのは昼休憩、二人向かい合ってお昼ご飯を食べている時だった。
場所は人のごった返す学食の片隅。楸さんの前には湯気の立つ美味しそうなきつねうどんがトレーに乗せられている。
何となく周囲からの、珍しいものを見るような視線に必死に耐えながら、僕は購買部で買ったパンをちまちま食べつつ楸さんの話を聞いていた。
「魔法って不思議なんですよね。うまくやろう、うまくやろう、って意気込めば意気込むほど失敗しちゃんです。あの薬を作る時も、よし今回こそは適量で作るぞ! って思ったんですけど……」
「け、結局あの薬、何だったの? 僕に何を飲ませようとしていたの?」
楸さんは僕の問いにニヤリと笑んで、
「忘却薬です」
「……それって、つまり」
「はい。昨日の記憶を全部忘れ去ってもらった方が確実かなって思って、シモフツくんに飲ませるつもりでした」
な、なんてものを僕に飲ませようとしていたんだ、この人は――
「たぶん、あの様子だと、自分が高校生になったってこと自体忘れちゃってるんじゃないですかね」
「だ、大丈夫なの?」
さぁ? と楸さんは小首を傾げ、悪びれる様子もなく、
「死ぬような薬じゃないですし、大丈夫でしょう」
「なら、いいけど――」
……ん? いいのか?
何となく自分自身に問いながら、アンパンをひと口かじったところで、不意に楸さんの顔が苦虫を噛み潰したように歪み、
「……げ」
漫画みたいに小さく呟く。
何だろう、と思っていると、
「――楸、ちょっといいか」
そんな声がして顔を上げると、いつの間にか担任の井口先生がそこに立っていた。
井口先生はじっと楸さんを睨みつけるように見下ろしながら、
「大事な話がある。今から職員室に来なさい」
言われた当の楸さんはと言うと、ずずっとうどんを一口すすりそっぽを向き、しばらくしてからぼそりと、
「今、シモフツくんとデート中なのであとでいいですか」
「ダメだ」
即答。
僕は二人の言い合いを、ただ黙って見ていることしかできない。
「お前はそう言っていつも逃げる。今日は逃がさん」
「……食事中なので、あとで行きます」
「食べ終わるまでここで待つ」
「あぁ、うっかりしてました。次の授業の課題をやってませんでした」
「それはもうあきらめろ」
「そう言えばこのあと、前田先生に呼ばれてまして」
「なら俺から前田先生にはあとで謝っておこう」
「あ、山田先生にも呼ばれてました」
「それもキャンセルだ」
そこで楸さんは突然バンっと机を一つ叩いて、
「もう、何なんですか! 私が何したっていうんですか!」
「自分の胸に手を当てて考えてみろ」
言われて素直に胸に手を当てて目を瞑る楸さん。
「――どうだ?」
楸さんはすっと瞼を開け、
「心当たりが多すぎて、どれの件かわかりません」
「だったらその全部について説教してやる」
楸さんはしばらくむむっと唸っていたけれど、やがて僕の方に残ったうどんを押しやりながら「ちっ」と大きく舌打ちをして、
「もう、わかりましたよ! 行けばいいんでしょ! 行けば!」
ぷんすかしながら席を立ち、井口先生の脇を抜けていく。
「素直でよろしい」
言って井口先生も楸さんのあとを追おうとしたところで、
「――シモハライ。お前、いつから楸と付き合うようになったんだ?」
意外そうに訊ねてきた。
僕は返答に窮しながら、
「……えっと、今朝?」
と自分でも訳が分からず首を傾げる。
井口先生はふんっと鼻で笑うと、
「なんだそりゃ」
そう言い残して、楸さんと二人、学食から出ていった。
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