ひとりめ

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   1  僕はその女性を目にした途端、思わず引き戸から一歩、外へあと退っていた。  こんな古臭い建物だから、てっきり年老いた老婆が出てくるものだとそう思っていたからだ。  けれど目の前にいるのは明らかに若い女性で、僕は思わず目を瞬かせてしまう。  その女性はたぶん僕よりいくつか年上、大学生くらいの年齢だろうか。  茶色く染められた長い髪を後ろで束ね、淡い水色のエプロンを身に着けている。  可愛らしい顔は僕とは住んでいる世界が違うような気がして――  戸惑っているそんな僕を見て、彼女は小首を傾げると、 「……どうかしましたか?」  そう訊ねてきた。  僕は「あ、いえ」と小さく答えてお店の中に入ると、恐る恐るカウンターに歩み寄る。 「あ、あの、その――」  必死に恥ずかしさを我慢しながら、 「れ、れれ、恋愛の、お、おまじないを、とと取り扱ってるってき、聞いて――」  しどろもどろになりながら、やっとの思いで言葉にする。  あまりの恥ずかしさに、僕は顔から火が出る思いだった。  恋愛なんて言葉、まさか自分が使うことになるなんて思いもしていなかったからだ。  僕は僕という人間の顔の悪さを、よく理解している。 「はい」  と女性は笑顔で頷き、 「おまじないというか、色々な魔法を取り揃えてますよ。好きな相手に振り向いて貰うためのバラの香水や、気を引くための言葉を編み出す誘惑リップ、二人だけの時間を持ちたいなら一時的に人払いをしてくれる懐中時計、あとはムードのある音楽で告白を後押ししてくれる自動式ミニ楽団とか――あ、でも、一番お手軽なのは、やっぱり惚れ薬かな?」 「ほ、惚れ薬……?」  そんなものが、本当にあるんだ。  でも、だったら、それを使えば―― 「あぁ、でもその前に」  と、彼女はカウンターに頬杖をつくと、 「どんな魔法があなたに合うのか、まずはあなたのコイバナから聞かせてもらってもいいですか?」  どことなく意地悪そうな笑みを浮かべながら、そう言った。  その溢れんばかりの笑顔に、僕はまた一歩あと退る。  ……苦手なんだ、こんな美人で可愛らしい人を相手にするのは。 「ん? どうかしましたか?」  小首を傾げるその姿すら様になっていて、何だか気後れしてしまう。  僕は一つため息を吐いて呼吸を整えると、意を決して、口を開いた。 「……よ、幼稚園の頃から、ず、ずっと、同じクラスの女の子が居るんです。く、くく、倉敷沙綾って名前の女の子で、げ、元気で、優しくて、い、い、家がお向かいってのもあって、小学校に入ってからも、ず、ずっと、一緒に登下校してました。い、家に帰ってからも、よくお互いの家を行き来して遊んだりして―― だだ、だけど、中学に上がってからは、ぶ、ぶ、部活とかが忙しくて、な、なかなか、一緒に学校に行ったり帰ったりすることができなくなっちゃったんです」  ふむふむ、と女性は頷き、 「中学校って、漣(さざなみ)中?」 「あ、はい」 「へぇ、じゃぁ私と一緒。後輩だね」 「え、あぁ、はい、そうですね……」  ニヤニヤ笑うその女性の顔を見ていると、何だか急に不安になってくる。  このお店、本当に大丈夫なんだろうか。  クラスのとある生徒|(あまり話したことがない)がこのお店の名前を口にしているのを、たまたま耳にして探し当てたのだけれど、普通に考えて『魔法百貨堂』なんて店名自体が怪しい気がする。  まさか、変な品を高額で押し売りされたりとか……?  そんなことを考えていると女性は、 「ごめんね、話を止めちゃって。それで、部活の所為で一緒に登下校することがなくなって?」 「あ、はい。そ、それで、その……なんて言うか。か、彼女は運動部なので、朝練で朝も早くて、ゆ、夕方も遅くまで練習してて、そんな日がずっと続くうちに、だ、だんだん胸が苦しくなっていったんです。ひ、一人で登下校している途中とか、い、いい、家に帰って、自分の部屋にいる時間とか、ど、どうしても、彼女の事ばかりを考えてしまうんです。最初のうちはどうしてだろう、なんでだろうって思いました。だ、だって、こんなことは初めてだったから――」 「ふうん、なるほど。急に寂しくなっちゃったんだ?」  ――寂しい?  ……うん、たぶん、そう。  僕は一つ頷く。 「そう、だと思います。そ、それで、この間久し振りに一緒に登校することがあって。その日は顧問の先生の用事があるからって、朝練がなかったんです」 「それでそれで?」 「朝、彼女が家まで僕を迎えに来てくれたんです。久し振りに一緒に行こう、って。その時の彼女の笑顔を見た瞬間、僕は胸を刺されたような、そんな衝撃があったんです。締め付けられるような痛さなんてものじゃなくて、本当に、ヤリか何かで突き刺されたような気分でした。その時、僕は気付いたんです。そうか、これが恋ってやつなんだって――」 「ほうほう、なるほど……」  女性はうんうん頷きながら上体を起こすと、 「そっかぁ、初恋かぁ」 「……たぶん」  僕の返事なんか気にするふうもなく、何故か楽しそうなその顔が、さらなる不安を僕の心に生じさせた。  どうしよう、ここまで話しておいてなんだけど、やっぱりこのまま帰っちゃおうかなぁ。  古本屋の奥に建ってるってだけでどこか怪しげだし、そもそも『魔法』ってどういうこと? 『おまじないというか、色々な魔法を取り揃えてますよ』  てっきり、そういう店名のおまじない屋さんだと思っていたのに……  やっぱり怪しい、怪しすぎる。 「あ、あの、すみません、やっぱり僕――」  一歩あと退りながらそう声を掛けたところで、女性はそんな僕に気づいているのかいないのか、カウンターの向こう側から何やら二つのキーホルダーを取り出した。  見れば、どちらも蝶の形を模している。翅はハートのような形をしていて、虹色に輝いていた。 「こ、これは……?」  僕の問いに、女性は微笑みながら、 「ヨツバチョウのキーホルダーっていうの」 「ヨツバチョウ?」  そんな名前の蝶、聞いたことがない。  すると女性はその二つのキーホルダーを重ね合わせ、 「ほら、こうして二つ重ねると、虹色の四つ葉のクローバーになるでしょ? だからヨツバチョウ。これをお互いに持っていると、どんなに離れていても必ず巡り合える、そういう力があるんだって」  何ともいい加減な物言いに、僕は思わず「はぁ」と答える。 「これを、あなたと倉敷さんの二人で持ってみて。そうすれば、きっとまた以前のように、一緒に登下校したり、遊んだりできるようになると思うから」  はい、と女性はそのキーホルダーを僕の前に寄せてくる。  僕はどうしたものか悩みながら、とりあえず、 「ね、値段の方は――」  と訊ねた。変に吹っ掛けられるようなら逃げるつもりで。  けれど女性は首を横に振りながら、 「あ、お代は良いよ。先輩から後輩へのプレゼントってことで」 「え、で、でも……」  思わず口ごもる僕に、女性は、 「いいからいいから!」  言ってキーホルダーをつまみ上げると、僕の目の前に差し出してくる。 「私、まだここで働き始めて間もなくてさ。実はあなたが最初のお客さんなんだ。だから、これもその記念。受け取って!」  ま、まぁ、タダなら、貰ってもいいかな……?  僕はキーホルダーを受け取り、女性に頭を下げる。 「あ、ありがとうございます。えっと――」  お名前は? と訊こうとする前に、彼女のほうから口を開いた。 「――私、アカネ。ナユタアカネ。今後ともよろしくね!」  そう言って彼女は――アカネさんは、にっこりと微笑んだ。
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