お隣さん

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お隣さん

「はいはい。わかったから。じゃあ切るよ」  母との電話を切ると同時に、アパートのドアをノックする音がした。  こんな遅くに誰だろう? 「はい」  ワンルームのアパートの玄関を開けると、初夏のいい風が入ってくる。扉の向こうには、ひょろっとして色白の若い男が立っていた。 「あの、今度隣に越してきた佐藤といいます。これ」  ビニール袋に入ったタオルを差し出された。有限会社佐藤工業と印字された営業用の白いタオルだった。  僕の部屋は奥から二番目で、彼は一番奥に越してきたそうだ。 「こんなもんですみません。俺、今度の引っ越しで金がなくてね。これ、実家の町工場の営業用のタオルなんだ。雑巾にでも使ってください」  人懐っこいくりくりした目が情けなさそうに笑った。  幼馴染みにでも会ったような、懐かしい気持ちになった。悪い奴ではなさそうだ。 「ご丁寧にどうも。僕、柴田って言います。あの、佐藤くんは大学生ですか?」  僕が聞くと、彼は肯く。このアパートから僕の大学はすぐなので、同じ大学の学生が多く住んでいた。 「うん。城東大の教育学部四年」 「僕も同じです。教育学部の三年です」   「へえ。学部も一緒なんて奇遇だな」  お互い、学年は違うが同じ学部という親近感で笑い合う。  佐藤くんはもともと住んでいたアパートの隣室の騒音に悩まされて、仕方なくここに引っ越してきたらしい。 「苦学生なんでさ、ほんと困った出費だよ。じゃあ、よろしくお願いします」  そう言うと、ぺコンとお辞儀して帰って行った。    それっきりその週は佐藤くんに会うことはなかった。  翌週、福島の実家から桃が届いたので、僕はそれをおすそ分けしに隣を訪ねた。最初の日はまだ帰っていないようで反応がなかった。次の日、もう一度訪ねると、今度はすぐに佐藤くんが出てきた。 「これ、親から送られてきたので、おすそ分けです」  桃が二つ入ったビニール袋を差し出すと、佐藤君は目を輝かせた。 「嬉しいなあ。食費切り詰めてるから、果物なんてご無沙汰なんだ」  ありがとうと言って、佐藤くんは桃を受け取る。 「へえ。福島って桃の産地なんだ。いい匂いだねえ」  そう言いながら、佐藤君はその桃を近くの流しの上に大切そうに置いた。 「あれ?」  僕は違和感を感じた。 「ここの部屋、綺麗だよね?」 「だろ? 俺、君の部屋訪ねてそう思ったんだ。君の部屋はかなり古いよね」  このアパートは“レジデンス昭和”という名前で、昭和が終わる頃に建てられた築35年の古いアパートだ。  僕の家は母子家庭なので母に負担をかけたくなくて、家賃の安さでここに決めた。ワンルームと言っても畳敷きの六畳間に流し台があり、古いユニットバスが辛うじてついた部屋だった。  隣の佐藤君の部屋も間取りは同じなのだが、室内は新しく見えた。リフォームされているようだ。 「ここさ、なにか事件とかあったって噂聞いてない?」  佐藤君が声を(ひそ)めて聞いてくる。  事故物件だからリフォームした……。そんな不安に駆られたようだった。 「聞いてないなあ。前は学生の女の子が住んでたけど、彼と同棲するって引っ越していったよ」 「そうかあ。じゃあ、心配しなくていいのかなあ」  何か気になることがあるようで、佐藤君は口ごもる。 「なに? なんか気になるの?」  僕が聞くと、佐藤君は話し出した。 「それがさ、大家さんに挨拶に行ったら、隣は女子大生が住んでるって聞いんだよね。それなのに君だったし、なんか変だなって」  変というより、女子大生というので期待したら僕でがっかりなんじゃないか、と僕は内心おかしくなった。  でも大家のおばあさん、確かもうすぐ九十とか言ってたし、最近物忘れがひどいって言ってたからな……。 「大家さん、最近物忘れがひどいって言ってたから、それはただの記憶違いだと思うよ」  僕は説明する。 「あんな元気そうでもそうなのか。じゃあ、もう気にするのはやめよう。桃、ありがとね」  佐藤君はまたあの人懐こい笑顔を見せた。 「あの、佐藤君、教育実習はやったの?」 「うん。終わって今レポートとか大変なんだ」 「そうか……」  邪魔しちゃ悪いなと思い、僕はおやすみと言って部屋をあとにした。
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