50人が本棚に入れています
本棚に追加
お隣さん
「はいはい。わかったから。じゃあ切るよ」
母との電話を切ると同時に、アパートのドアをノックする音がした。
こんな遅くに誰だろう?
「はい」
ワンルームのアパートの玄関を開けると、初夏のいい風が入ってくる。扉の向こうには、ひょろっとして色白の若い男が立っていた。
「あの、今度隣に越してきた佐藤といいます。これ」
ビニール袋に入ったタオルを差し出された。有限会社佐藤工業と印字された営業用の白いタオルだった。
僕の部屋は奥から二番目で、彼は一番奥に越してきたそうだ。
「こんなもんですみません。俺、今度の引っ越しで金がなくてね。これ、実家の町工場の営業用のタオルなんだ。雑巾にでも使ってください」
人懐っこいくりくりした目が情けなさそうに笑った。
幼馴染みにでも会ったような、懐かしい気持ちになった。悪い奴ではなさそうだ。
「ご丁寧にどうも。僕、柴田って言います。あの、佐藤くんは大学生ですか?」
僕が聞くと、彼は肯く。このアパートから僕の大学はすぐなので、同じ大学の学生が多く住んでいた。
「うん。城東大の教育学部四年」
「僕も同じです。教育学部の三年です」
「へえ。学部も一緒なんて奇遇だな」
お互い、学年は違うが同じ学部という親近感で笑い合う。
佐藤くんはもともと住んでいたアパートの隣室の騒音に悩まされて、仕方なくここに引っ越してきたらしい。
「苦学生なんでさ、ほんと困った出費だよ。じゃあ、よろしくお願いします」
そう言うと、ぺコンとお辞儀して帰って行った。
それっきりその週は佐藤くんに会うことはなかった。
翌週、福島の実家から桃が届いたので、僕はそれをおすそ分けしに隣を訪ねた。最初の日はまだ帰っていないようで反応がなかった。次の日、もう一度訪ねると、今度はすぐに佐藤くんが出てきた。
「これ、親から送られてきたので、おすそ分けです」
桃が二つ入ったビニール袋を差し出すと、佐藤君は目を輝かせた。
「嬉しいなあ。食費切り詰めてるから、果物なんてご無沙汰なんだ」
ありがとうと言って、佐藤くんは桃を受け取る。
「へえ。福島って桃の産地なんだ。いい匂いだねえ」
そう言いながら、佐藤君はその桃を近くの流しの上に大切そうに置いた。
「あれ?」
僕は違和感を感じた。
「ここの部屋、綺麗だよね?」
「だろ? 俺、君の部屋訪ねてそう思ったんだ。君の部屋はかなり古いよね」
このアパートは“レジデンス昭和”という名前で、昭和が終わる頃に建てられた築35年の古いアパートだ。
僕の家は母子家庭なので母に負担をかけたくなくて、家賃の安さでここに決めた。ワンルームと言っても畳敷きの六畳間に流し台があり、古いユニットバスが辛うじてついた部屋だった。
隣の佐藤君の部屋も間取りは同じなのだが、室内は新しく見えた。リフォームされているようだ。
「ここさ、なにか事件とかあったって噂聞いてない?」
佐藤君が声を顰めて聞いてくる。
事故物件だからリフォームした……。そんな不安に駆られたようだった。
「聞いてないなあ。前は学生の女の子が住んでたけど、彼と同棲するって引っ越していったよ」
「そうかあ。じゃあ、心配しなくていいのかなあ」
何か気になることがあるようで、佐藤君は口ごもる。
「なに? なんか気になるの?」
僕が聞くと、佐藤君は話し出した。
「それがさ、大家さんに挨拶に行ったら、隣は女子大生が住んでるって聞いんだよね。それなのに君だったし、なんか変だなって」
変というより、女子大生というので期待したら僕でがっかりなんじゃないか、と僕は内心おかしくなった。
でも大家のおばあさん、確かもうすぐ九十とか言ってたし、最近物忘れがひどいって言ってたからな……。
「大家さん、最近物忘れがひどいって言ってたから、それはただの記憶違いだと思うよ」
僕は説明する。
「あんな元気そうでもそうなのか。じゃあ、もう気にするのはやめよう。桃、ありがとね」
佐藤君はまたあの人懐こい笑顔を見せた。
「あの、佐藤君、教育実習はやったの?」
「うん。終わって今レポートとか大変なんだ」
「そうか……」
邪魔しちゃ悪いなと思い、僕はおやすみと言って部屋をあとにした。
最初のコメントを投稿しよう!