自由を示す数を答えよ

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 十一、と数えて笑われた。  何を笑われたのかわからなかったおれを、天子は手を引いて導いた。  我が国の、数について教えよう。  明るい目を細め、かれは言った。  糸巻をたどる。順番にかけ合わせていけば、遅々、遅々と織り目が重なっていく。カラン、と落ちた糸車を台に引っかけて、強ばった肩をかるく回す。  外はまたかすかな雨が降っている。湿気を含んだ風が、肌にずっとまとわりついているような感覚には未だ慣れない。水気がこうも体力を奪うとは、この国へ来て初めて知った。  南海の島国。本国の傘下にあたる列島からも遠く離れた極東の地は、未だ本国の手には治まらぬ(あお)の原石だ。輝きは鈍く、本腰を上げて取りに行くほどではない。ひょいと摘まむには、少々遠すぎる。それでもちょっと指を掛けてはおくか、とおれが送りこまれた。  本国を出たのは雨季を迎える前だったから、この国で雨に触れたときには少し嬉しいくらいだったのだが。  年中雨が降り、年中晴れがあると聞いてはいたが、こんなに延々とじめじめした天気ばかりとは聞いていない。ずっと降っているわけではないのに、つねに風が濡れているのはどういうわけなのか。  衣が軽く作られているのも、湿度がゆえだろう。本国のように羊毛を織った布はここでは重くて着られまい。薄くて頼りない布地を、何枚も重ねて着る。なんとも慣れない。  晴れていても日差しはやわらかく、強く照りつけることはない。土は乾いていてもどこか、深いところでぬかるんでいる。  床に敷き詰められた草の匂いだけが、どこか乾いた草原の匂いに似ていてほっとした。 「主」  戸板が音もなく開いて、あわてて伸ばした足を隠した。隠してから、素知らぬふりでそろそろ足を伸ばしていけば、戸を開けた従者はちらりとおれの足を見下ろして、「慣れるまでは仕方ないですよ」と空嘯(そらうそぶ)く。  本国では裸足を見られるなど、あってはならないことだった。しかしここでは違う。従者はすでに慣れきって、もはや革の靴を履くのもやめた。彼曰く、とにかく地面が悪いのだと。おれもはやくあきらめたいものだが、まだ革の靴を捨てるほどは思い切れない。 「ところで主、先ほどはどこへ連れて行かれたのですか。天子と二人など、肝を冷やしましたよ」 「おれに言うな。逆らえるはずがなかろう」  大国の王子とは言え末席も末席、ほとんど役に立たぬ人質と、神の血脈を受け継ぐ唯一無二の天眼の御子である。ましてなにか失礼があったようだから、余計に逆らえなかったのだ。  右の人差し指で糸巻をすくい上げて、中指で左の糸巻を引く。左の人差し指で右の二番目の糸巻を引っかけながら、糸を薬指で押さえて次の糸巻をたどる。糸が手の中で蜘蛛の巣のように形を変えていく。そのたびに、カラン、コロンと糸巻が織台に落ちて鳴る。 「天像を拝見しただけだ」  規則的に落ちる糸巻の音に、また強く降り始めた雨音が重なった。  数について教える、と天子はおれの手を引いて、ずいずいと宮の奥へと分けいっていった。  導かれるまま、長いながい廊下を進んだ。おそらく禁域とされるような場所だったろう。静寂と砂の上に架された木橋は水面のように木々の影をゆらゆらと点し、まるで川を上るようだった。  風に揺れる葉ずれはせせらぎに、床板の軋みは舟を漕ぐ櫂のしなりに。  遡る川の源には祠があった。歩いたのはそれほど長い時間ではなかったが、そこは昼日中(ひるひなか)にも関わらず、夜のように暗かった。鬱然と繁る、人為的な森。滴る雨の中、林冠に覆い隠された禁足の地。  天子が祠の守り人から火を分かち、頭上へ掲げる。  灯火に浮かび上がったのは、無数の手だ。思わず息を飲み、続く天子の言葉に耳を疑った。 「うつくしいだろう」  うつくしい。それは、綺麗という意味だったか。これが? 正気かと顔を伺えば、天子は焦がれるような目で無数の手の群れ、その更に上を見上げていた。  そこには三つの顔があった。見下ろされている。睥睨されている。見守られている。三つの視線が、こちらを向いている。  三顔千手の異形の神。  それが、かれらが崇める神だという。天眼を持ち、あまねくすべてを見通して、その千の手で多くの民草をすくいあげる――。 「テンツォ?」 「そう。神を象った木の像だ。千手の神でな。この国では、数のかぞえかたが神に由来するらしい」  話の流れがつかめないのか、はあ、と生返事しながら、従者が傍に膝をつく。 「それで、十一というのは人が扱ってはならん数だそうだ。どうやら『十』『一』と続けて言うと『生ける屍』という意味になるらしい」 「はあ?」  従者は間抜けな声を上げた。ほつれて落ちかけていたおれの髪紐をほどき、わしわしと雑に編み目をといていく。 「それ、十一以上はどう数えるんです? 間にわざわざ『と』を入れるんですか?」 「いや、もっとややこしい。十一から二十一まで、別の単語だ。そしてそこから四十二までは重ねて繋げる。つまり三十二は十一と二十一だ」 「ええ? そんな使いづらい数字あります?」 「更に驚くことに、十一から二十一までまったく規則性がない。ちなみに書くときは使わんそうだ」 「廃れてしまえ!」 「神の言語だぞ、慎め。おれもそう思う」  深くうなずくと、従者はぶんぶんと頭を振って「いやだ、俺もう数はかぞえないことにします」と早々に学習を放棄した。このやろう。 「だってこの国、色の名前も山ほどあるんですよ。俺は色だけでいっぱいいっぱいです」 「なんであんなに多いんだろうな」 「似たような色がありすぎなんですよ……」  今度は肩を落とした従者が少々気の毒になり、つい、許した。 「まあ、色のことは頼む」 「聞き取りも満足に出来ないのに、難易度高すぎます」 「迷惑をかけるな」 「いいえぇ、おれがもっと頭よければ、あなたをもっと助けてさしあげられるんですけど」 「十分助けられている」  本当に。  本来ならこいつは、この国へだってついてこなくてもよかったのだ。  言葉も満足にわからぬような、遠方の島国へ送られたのは失っても惜しくないからだ。片道になるかもしれぬ船旅も、情勢のわからぬ国への使者も、うまくいく保証など欠片もなかった。  人質ですらない。  この国では咎人の刑罰に『島流し』なるものがあるようだが、まさにそれだった。  山蜘蛛を制圧しそこねた責任を取って、新たな手土産を持ってこいと、名目上はそう告げられたが、実際のところ、おれは今度こそ捨てられたに違いなかった。  運よく宮へ逗留出来たのは、本国では蛇蝎のごとく嫌われるこの瞳が、この国においては神のごとく尊ばれるものだったからだ。  おぞましい悪魔、東より来たる獣、アイオロクス。呪われた瞳は邪視魔眼、その瞳に映るものに禍をもたらす。そう疎まれてきた目は、この国では天眼と呼ばれ、生き神の証だそうだ。統貴(すめらき)の血筋へ受け継がれ、直系男子にのみ(しるし)として顕れる。  ただ人には生まれぬ色、という点では同じだが、扱いには天と地ほどの差がある。  たったひとりの従者を連れた死地への旅は、思わぬ運に助けられて、のんびりとした休暇に変わった。  湿気にうねるおれの髪を再び編み込み、束ねて紐でくくりながら、従者は小さな声を落とす。 「邪視でさえなければ、あなたが王となれましたのに」 「滅多なことは言うな」 「誰も聞きやしませんよ。こんな僻地にまで、影も届かない」 「それも、そうか」  言語と文化の戸惑いはあれど、概ねこの国での暮らしは快適だった。  最初は外からの使者、しかも天眼の持ち主と騒がれたが、明らかに異人種であるから、やがてこれは天眼ではないと認識されたようだ。  それでも、この瞳を血に取り入れたいと望むのか、人生最大に持て囃されることになった。もちろん、こんな危うい橋を渡るつもりはない。  時折人の集まりに呼ばれ、もの珍しそうに、眩しいものを見るように瞳を眺められて、ときに歓談し、そしてしずしずと解散する。仕事といえば、そのくらいのものだ。  つまり、人生最大に、暇になった。  まったく期待されていないとはいえ、使者としてたまには報告書など書いてみようかと筆を執ったが、驚くほど書くことがない。なにせ宮は天子と統貴の御子たちの住む場所、かなり閉ざされている。世情など風にも聞こえてこないし、庶民とは使っているものから食べているものまで違う。  書けそうなものは気候か、動物か、植物のことくらい。  たとえば、平べったくない猫とかだ。  庭にせり出した床に座る、なぜかやたら丸っこい猫のひなたぼっこを眺める。どうしてあの猫はあんなに丸いのか。  猫は細い尻尾をふりふり、転がったり、伸びてみたりする。あくびをするのはなかなか愛嬌がある。眺めていると、間延びした声を上げながら膝の上へ乗り上げてくるのには驚いた。警戒心をどこへ置いてきたのか。それとも、この国には猫を狩る鳥はいないのか。  猫も変だが、山羊も変だ。あまりにも貧相なので、初めて見たときには今日の糧にするのか、それにしてもずいぶん痩せた山羊を食べるものだと不思議に思ったものだ。しかし明くる日も庭にいる。ずっといる。山蜘蛛の里にいた山羊と比べれば半分もないのではなかろうか。  山に放してやらぬのはあまりにも哀れではないかと、近頃はすっかり囚われの山羊に同情している。  山羊は貧相だが、狼はころころと太っている。ともに飼われているが、どちらも手触りはやたらと悪い。湿度のせいだろうか。  狼はまだ子どもだから丸くて、ほとんどは毛玉だというが、とにかくころころしていて、なぜかやたらと腹を見せる。狼の矜持はないらしい。  平べったくない猫はいつのまにか部屋へ居着いてしまった。なぜか糸巻を狙っている。虫でも捕ればよいものを。  しかもこの丸い猫は意外にもどんくさく、なんと捕まえることが出来る。持ち上げると三倍に伸びる。これは手触りがよく、香でも焚きしめているのか、驚くほどよい匂いがする。特に額のあたりは、煙っぽく甘い蜜の匂いだ。  毛刈りをすればよい糸になるのに、と女中に呟いたら猫はこなくなった。道具もないのに刈れるわけがなかろう。うっかり野蛮人だと思われている節がある。  海からは離れているというが、風には潮の臭いがかすかに混じる。名も知らぬ花の香りと、干し草の乾いた匂い。それから煮た豆の匂いが、どこにでも染みこんでいる。  乳酪を煮詰めて少し焦がしたような甘い匂いばかりがするのに、どういうわけかしょっぱい郷土料理は、なかなか慣れない。草と豆と草と草の実ばかりの食事だが、腹は膨れるし、よく眠れる。  どこをどうとっても異国だというのに、本国よりよほどくつろいでしまっている。 「東宮からヨーの差し入れをいただきましたよ」 「ヨー? ああ、(イォ)か」 「ヨー」 「滑舌が悪い」 「いいんですよ、これで通じるんだから! 今日は焼きヨーです」 「魚か……」 「文句言わない!」 「そのうち鱗が生えそうだ」 「豆と豆と草と草と根っこと草の実の食事でご満足ならいいんですよ別に」 「たまに虫も出る」 「やめてください忘れようとしてるのに!!」 「まあ、魚も生きものの肉だ」 「これはヴィーイーだそうです」 「その発音合ってるんだろうな? だいたいこれはイナドじゃなかったか?」 「大きくなると名前が変わるらしいです。シ、ズィー、ヨー?」 「『出世』『魚』? 階位が上がるのか」 「そんな感じらしいです」 「ややこしいな」 「幼名みたいなものじゃないですかね」 「食えなくなるだろ、よせ!」 「主は気が優しいから。ところで、なぜ東宮から贈り物が?」 「襲われているところに通りかかってな」 「なんでそういうところに通りかかっちゃうんです?」 「おれが悪いように言うな。助けたんだから褒められるところだろ」  狙われて、間一髪死ぬところだったというのに、天子はおっとりと目をまたたくばかりだった。危機感がまったくないところは、平べったくない猫に似ている。  大切に、花のように守られて育ったのだろう。かれは同じ男だというのにいい匂いがして、たおやかに細く、長い指には整えられた小さな爪、あきらかに日に当たっていない、明るい肌をしている。 「天眼の御子ってのは生き神なのだろう? 殺してどうするんだろうな」 「いやあ、どうにでもするんじゃないですかね」  従者は魚を相手に悪戦苦闘しながら言う。別に厨に任せればいいと言ったのだが、本国にいた頃の癖が抜けないのだろう。自分で影も届かないといいながら、こいつはまだ安心できていない。 「天眼の儀というのがあるそうで、そこまでは天眼とは認められないそうですよ」 「それを受ければ他のものでも瞳の色が変わるのか?」 「そんなわけないでしょう。天眼じゃないと受けられないらしいですよ」 「殺しても王になれぬのに狙うのか」 「天子が即位すると、他の御子は海に流されるそうで」 「はあ?」  かつては(にえ)として両手を落として海へ沈めたそうだが、今はただの遠流(おんる)だという。天子になれぬものは手を失い、(イォクズ)になるのだと。  贄に比べれば熱いほどの温情ではあるが、ぬくぬくと鳥籠で育てられた御子たちを放逐するとは、なかなか思いきったことをする。どうせ王になれぬものたちならば、はじめから宮で囲わず、外に放してやればよかったものを。  しかし島流しが嫌で、国を潰すのか。破壊的で、根性のある御子もいるらしい。 「しかしこれは、いくらなんでももらいすぎだな。お礼にひとつ、髪紐でも組むか」  夕餉に並んだ巨大な焼き魚を二人でつつきながら、皿に盛った草の実を食べる。慣れればこの草の実も美味い。ただ、今日はやたら柔らかくて汁っぽい。わからん料理なら無理にするなと言うのも憚られるので黙っているが、この草の実の正しい状態が、未だにおれにはわからない。 「いいですね、糸なら買ってありますよ。本国なら髪色や瞳にちなむところですが、こちらじゃ髪は国民だいたいみんな一緒だし、瞳は主と同色ですから変な誤解が生じても困ります。なにより天眼を象ってはなにかお怒りを買ってしまうかも」  ちょうど暇に飽かせて一織をあげ、織台が空いたところだった。いつもは山羊の毛を紡いだ糸を扱うが、こちらに山羊の毛はないらしい。木の糸に草の糸、それから虫の糸。手触りも、音も、匂いも違う。  髪紐ならば、三日もあれば編み上がる。 「では、名にちなむか」 「ところが天子様、お名前がないらしいんですよ。生き神さまなので、人として名を授かるのは、死んだときなんだそうです」 「なんだそれは。幼名くらいつければいいだろう。魚にもあるんだぞ」  魚は幼名じゃないでしょう、と従者が言うのを聞き流す。 「誕生季に合わせましょう、それなら有名です。色合わせも、お任せください」  習ってきましたから、とはりきった従者が糸を選び、合わせはじめる。  名もなくただ天子と呼ばれるのと、化け物(アイオロクス)と名づけられるのと、果たしてどちらがましだろうか。  人伝に髪紐を送ると、後日、改めて天子より招待をうけた。  天子の庭は北側にあり、あの鬱蒼とした森と近いせいか、他の宮より少々暗い。しかしひんやりとした風が吹きわたり、木陰で日差しがやわらかいのは、心地いい。  天子の長く暗い髪には、おれの織った髪紐が結ばれている。 「ありがとう。とても気に入ったよ。君が織ったのだって? まるで職人の手だな。うつくしい」 「そうだろう。この織布については、おれがいちばんの職人だ」 「それはすごい」  冗談だと思ったのか、天子はくるくると笑った。 「魚、ヴィーイー? ありがとう、うまかった」 「ギニかな? 口にあったようでよかったよ」  全然発音が違った。あいつめ、滑舌が悪すぎる。 「あの魚は、名前が変わるが、最終的には何になるんだ?」  照れ隠しにどうでもいいことを聞いてしまった。 「さあ、考えたこともなかったな。龍にでもなるのかも」 「龍?」 「魚が滝を登って、龍になる話があるだろう? 元々は、大陸の話だと思ったけれど」 「聞いたことがないな。ガ国の話だろうか」  龍は本国では王の象徴だ。そんな成り上がりの逸話など、たとえあったとしても広まることはないだろう。  天子はおれを部屋へ招き、何が面白いのか楽しそうに笑う。 「君とは、一度ちゃんと話してみたかったんだよ。でも、乗っ取りを企んでいるかも、なんて言って、聞いてくれなくて」  助けてくれたから、ようやく要望が叶ったのだと、目を輝かせる。その明るい目が、おれの目をまじまじと見つめた。 「すごいな、本当に青い。その瞳は、君の国では邪視と呼ばれるのだって?」  ふしぎだ、とかれは首を傾げる。 「おれの国だけではない。南海に接する国では、みなそう呼ぶ」  だからもし逃げるなら海の向こうに、と本国にいた頃はよく思ったものだった。それが今はこうして叶っているのだから、おかしなものだ。 「なるほど、我が国は北海の(おか)に手をかけたことがあったのかもしれないな」 「天子には嵐を操る力が?」 「あるわけないだろう」 「邪視は、嵐の目とも呼ばれる。嵐を呼び寄せるそうだ」 「嵐など呼んで何になる?」 「なにも益はない。だから、無用とされる」  きょとりと明るい目をまん丸に瞬かせ、それからかれはまた笑った。 「では我が祖先は、島流しかもしれんな」 「なるほど、おれと同じわけか」 「なれば君も、天子というわけだ」  同じ血を祖とするには、おれと天子ではあまりにも違いすぎている。人種も、姿も、ありようも。  それでも一瞬、そうかもしれない、と思ってしまった。  その夜、従者はひそめた声で言った。 「天子の庭には、赤がありません。……天子は、主と同じ瞳かもしれない」  今更なにを、とは言わなかった。代わりに、まさか、と笑ってやった。 「天子はおれの瞳を見分けたよ。おれとは違う」  一度の来訪で大分信頼されたのか、天子によく招かれるようになった。  特に仕事もないので、呼ばれれば向かうしかない。呼ばれてあれやこれやと準備するのは面倒だが、天子と話すのは嫌いじゃない。おっとりとした、時間の流れから置いていかれたようなかれの存在は、この国そのもののようにおれに馴染んだ。  それに、赤がないと従者がいった天子の庭は、たしかにおれの目にも楽しい。  この庭は埋もれる花がない。枝葉は暗く、花は星のように明るく咲く。匂いがあり、手を伸ばせば花に触れられる。  それで思わず、尋ねてしまった。以前、従者がこの国は色の名前が多すぎるとこぼしていたのを思い出したから。 「この国の『赤』はいくつある?」 「赤はひとつだよ」  天子からはすぐに答えが返ってきた。聞きたい答えではなくて、言葉を探す。 「そうではなく、赤い……」  言葉に戸惑って指先をさまよわせる。だが、おれには赤を指すことはできない。ひたひたと周囲の静けさが増した気がした。  天子は微笑んだままの顔で、さまようおれの指を取り、いつかのように手を引いた。 「こちらへ」  部屋へ招かれると、重厚な木箱に詰められた木札を見せられた。特に文字も絵もなく、札毎に微妙な明るさの濃淡だけがある。嫌な予感がした。 「この札と、同じ色がわかるかい」  天子が一枚の木札を手に、おれに問う。  失敗した、そう歯噛みしたが、従者を外に出された今、誤魔化す術はない。仕方なく、なるべく似た明るさのものを選んだが、やはり違ったらしい。 「真の天眼だ……。カムィも高い」 「カムィ?」 「より光そのものを見る目が、天に近いとされる。神威(かむい)が高いほど、天眼は神に近づく」  階位、だろうか。 「君の目には、これとこれは別のものに見えるのだろう?」  かれが指し示す札は、おれにはあきらかに右の方が暗く見えた。 「お前には同じに見えるのか?」 「私は、瞳の色こそ天眼の条件を満たしているが、内実は違うんだ。私には、光を見分けることはできない。この光の色を見ることが出来る君が、私はうらやましいよ」  かっとして、おれは思わず言い返した。 「色など生まれてこのかた見えたことなどない。うらやましいものなどあるものか!」  天子が箱を取り落とし、薄い木札がからからと床に落ちる。  かれの目には、他者の目には、それはどう映るのだろう。輝いてみえるのだろうか。香るように、音のようにさまざまに響くのだろうか。あることすら忘れていた感慨が、胸にこみあげた。  何が色だ。何が光だ。  きびすを返して引き戸を開けると、思いのほか甲高く戸板が鳴った。大きく足を踏み出せばぎしりと床が軋む。  待って、と追いかけてくる天子の声を背に、止まれなかった。振り向くことも出来なかった。  光のなかを、花のなかを、細く頼りない体で追いかけてくる。明るくて、花の匂いがするいきもの。傷つくことのないように守られた庭。おれとは違う。  この目が見てきたのは、光ではない。  暗やみだ。  カラ、コロと糸巻を繰る。指が糸を絡めて拾い、糸巻をくるりと回す。カラ、コロ。光が落ちる。影が落ちる。鉄錆の臭いも、薬の臭いもしない。指が少し強ばる程度で、身体の何処にも痛みはない。  明るい糸を、暗い糸を追いかけて拾っていく。こぼれ落ちる繋がる糸を、引き締めて転がす。糸の色がわからずとも、光をとらえる糸の影はうつくしい。  糸巻を織り、糸に触れている間だけは、何も考えずにいられる。  何も見るな。暗やみを見ていろ。でなければ目を潰すぞ。幼い頃から、おれはそう言い聞かされて育った。呪いの目、見たものを不幸にする目だと。  すぐ上の兄の庇護により、目を潰されることだけは免れたが、おれは本国では、人ではなかった。生きるためには、人ではないものでなければならなかった。   かつて、何も変わらない、と言った者がいた。目の色が違う、見えるものが違う、どうにもならないことばかりだが、誰にも、どうにもしてやれんのさ、と背中を叩いた。そして小さなおれにしゃがみこんで目を合わせ、嵐を呼んだっていい、おれは明日は雨がいい、と笑った。  おれが光を見たのは、山にいたときだけだ。  あの腕を、あの首を、おれは結局、山へ帰してやることが出来なかった。 「では天子さまは真実の天眼ではなく、主こそが天眼であると」 「完全に生まれる処を間違ったな」  冗談交じりに笑ってみせると、思いのほか従者は真剣な目で言った。 「天眼こそが尊ばれるのであれば、いっそ、国盗りでもよいではありませんか」 「あほか。よその国など盗って何になる?」  ですよねえ、と従者は肩を落とした。 「でも真の天眼こそ継承の大義であるなら、天子さまも安泰というわけではないのですね」  後日、天子がわざわざ訪れて詫びにきた。  おれの部屋を初めて見た天子は、糸巻織の織台を見て、目を輝かせる。これはなにか、何をしているのかと忙しなく小鳥のようにさえずった。大雑把に「大陸の織物」と説明すれば、こんな織り方は見たことがない、と感嘆の声をあげた。  それはそうだろう。今はもう、この織台はここにしかないし、職人も残ってはいない。  山羊の毛を染めて紡いだ細い糸を巻いて、指先だけで織りあげていく。糸巻織を古くから伝えてきた山蜘蛛の一族は、本国に滅ぼされた。  うつくしい織布を望まれ、工人は攫われ、抵抗の末にみな死んだ。山蜘蛛の糸巻を織るものは、もうおれ以外にいない。呪われ子として山へ送られたおれを哀れんで、職人たちが戯れに教えてくれた手遊びの技だけが、この手に残った。  このどうしようもなく拙い織だけが、残ってしまった。  おれが山へ行かなければ、商売を持ちかけなければ、あの一族は目をつけられることもなかった。おれが、目を向けなければ。  カラ、コロとひたすら糸巻を転がす音だけが響く。じっと手元を眺めていたらしい天子がふとため息を吐いた。 「すごいな。何処が織られているのかもわからない」 「そういうものだ。丸一日織っても二寸も進まん。気の長い趣味だ」 「……色が、わかるのか」  潜めた声で問われて、今更、と笑った。 「わからん。だが順番通りに動かしていけば模様になる。わからずとも何も問題ない」  慣れれば手の感覚だけで織れるので、山では老爺も鉤のように曲がった指で織っていたものだ。  そうか、とうなずいたきり、天子は口をつぐんでしまった。こちらから声をかける話もなく、沈黙のなかに糸巻を転がす。  やがて、天子はぽつりと言った。 「私の神威が低いから、君に迷惑をかけてしまった」  先日、おれの部屋に生まれて初めての夜這いが訪れたことを言っているのだろう。  自室に他人の気配があるなど、おれも従者も暗殺以外の可能性に思い至らず、とんでもない騒ぎになってしまった。相手方を気の毒な目に合わせてしまい、むしろ申し訳なくなったほどだ。  真の天眼なら異種族でも構わないという発想には驚愕しかないが、天眼の母なれば統貴の頂、神母が約束されるとなれば、一縷の望も抱くのかもしれない。 「その神威というやつは、天眼に何の影響がある? なぜ低いとだめなんだ」 「天眼は、兆しを見るために天の子に宿る。天神は禍を光で知り、その光の明るさを民に伝えるのが、天子の役目だ。天眼の儀は、この目に兆しの光が見えるのかをはかる。あの色札を、色味に一切惑わされず、光の順番に正しく並べられることが統貴を継ぐ条件なんだ」  おれは首を傾げた。 「丸暗記ではだめなのか」  天子は目をまたたかせた。それからみるみる瞳を輝かせると、膝をぐっと詰めて、顔の前でぱんと手を合わせる。 「教えてくれないか、私に、君の目が見る光を!」  おれは天子の宮へ案内され、夜這いのない安全な夜を手に入れた。  代わりに、天子のために色札を並べ、数を振っていく。十一、から先の数を覚えていないのが早々にばれた。 「数字になぜ規則性がないんだ。十の繰り返しでいいだろう」 「むしろなぜ数を十までしか数えないのかが、私にはわからない。たしかに人の手には十の指しかないが、神の指は無数にある。だから私たちは、神の指を数える。すべて違う指だから、同じ名はついていない」 「由来について理解はしよう。だが、ややこしい」 「だから三五四からは規則性のある十の繰り返しでいいことになっている」 「三五三まではあるのか!?」 「昔は九九九まで数えたそうだよ。それに今も、宮でなければ二十二からは規則的に数えていい。でも私は天眼だから、九九九までのすべての正しい数字を使わないといけない、通じる人はすくないのに」 「ややこしいな……」  そう言う以外になかった。同じ言葉を話すものにも通じないなら、何の意味もないではないか。 「ややこしいけど、これもまた、天眼だから仕方ないんだ」 「光の順番か」 「それもあるかもしれないけど、天眼ならば、神だから。見えない手があるはずなんだ。光の手がね。私にだって、手はふたつしかないのに」  この木札は自分以外が見ることはないからと、天子はおれの言ったとおりの順番を、墨で書き入れていく。色をめくれば、数字がわかるように。  歌貝みたいだ、と天子は笑う。二枚貝の上と下に、歌を書いて合わせる遊び。同じ貝だけが番のように重ねることが出来るから、正解かどうかは合わせてみればわかる。  おれも呼ばれた先で見たことがあるが、この国の歌は知らないし、貝の絵もわかりづらくて困ったのを思い出す。その点この木札は、のっぺりと色だけが塗ってあるのでわかりやすかった。 「人の手は十までの祝福を授かるために、指があるそうだ。だから一から十までは、人が生まれながらに与えられる、あるいは手に入るものだという。神を信じ、受け入れ、努力すれば余すことなくその恩寵を得られる」  一は命、二は健康、三は家族、四は友人――そして十は死。すべてを手に入れたなら、幸福な一生を送れるだろう、というものがそろっている。 「『零』は、無の数字はないのか」 「無? ないのなら、数えられないだろう」 「ないことを顕す記号だって、必要だろう」  天子は一拍うなずき、少し考えて言った。 「ならばそれは、空、かな」  光そのものを指し、天眼の色とも言われる。人の認知するところを超える、あるのにない、ないのに存在するものを指す。  数字ではないけどね、と天子は言う。 「もし数字ならば、それを自由と呼ぶのだろうな」 「自由は、十一だよ。すべてを持っていたら、手を離さずに、何かを捨てずに、新しいものなど持てぬだろう。それは自由ではない。だから、自由は人の手に余るところにある」 「いっそもっと遠くにあれば、あきらめもつくものを」 「あきらめずともよいから十一、とも言われている」 「なるほど」  数字の理由は、聞いてみるとなかなか深い蘊蓄があって面白かった。おれはさらなる説明をねだり、天子は答えた。 「十一から二十は、何かを失えば手に入れられるものだ。あるいは、他人から奪うもの。自由、栄光、勝利……」  おれが糸巻を手繰るように、天子は色札に数字を名付けるようにしてめくっていく。おれにわかるよう、無粋だと笑われる規則性のある十の繰り返しも使ってうたう。  天子の声は、この国の風に似ている。湿度と重さがある。光も影もなく、音も匂いもなくても、たしかにそこにあるとわかる。潮と花と水の匂いがする。  色札の数は百枚で、歌は幾度か繰り返して途切れた。  どこからか、鳥の声が聞こえる。 「色の名前も、教えてくれ」 「いいよ」  天子はおれに応えて、数と、十の繰り返しの数と、耳慣れぬ色の名前をうたった。由来のわからぬ色があればおれが問う。ほとんどは花や草に由来する。  この国は、植物が多い。本国は緑に乏しかった。けれど山には多くの草が生えていた。きっとあの草にも、名前があったのだろう。聞いておけばよかった。目を閉ざさずに、彼らの顔も、もっとちゃんと見ておけばよかった。どうしたって失われるとわかっていたならば、もっと。  天子はおれが願った歌を、童のかぞえ唄のようにして整えた。繰り返す旋律に乗せて、色と数をうたう。  あまり大声でうたうものでもないからと、ひそめた声が雨音と糸巻のあいだをぬっていく。  色の名を聞いて、由来を聞いて、それは見たことがない植物だ、と夜のうちに話せば、次の日には天子が持ってきた。  ほら、これだ。新鮮なものもあれば、干されたものもある。乾くと色味は変わるが甘みは増すとか、皮をむくまでは匂いがしない、とか、天子が知る範囲の知識も教えてくれる。  正直にいって、天子はまったくものを知らない。籠にいれられ、外に出たことがないからだろう。与えられるものだけを受け取って、受け取ったものだけで生きている。ずいぶん、窮屈な暮らしだ。  十一が自由だという話をおれは印象深く思い出した。何もかも与えられるものがすべて揃っているのなら、たしかにそこに自由はないのだろう。何かを失わずに、自由は手に入らない。  ある夜には、天子はどこからか糸巻と織台を持ってきて、束ねた絹糸の束を鳴らした。 「私も織ってみたい。教えてくれ」 「忙しい天子には向かぬ趣味だぞ」 「なに、忙しいのは今だけだ。統貴を継げば暇になる」  天眼の御子は生き神だ。担ぎ上げられた後は、特に仕事はないらしい。物事の吉兆を見るとか、藩主に赦しを与えるとか、その程度だと言う。  父上は暇すぎて、子どもを増やしすぎたのさ。そう笑い、私は子どもは少しでいい、と言った。  また雨だ。  雨季と違い、ちょぼちょぼと長く続く雨は気が滅入る。といっても、今日は土砂降りだった。滝のように降っている。  水と土の臭いばかりの地面を眺める。ぬかるんだ地面を見ると、やはりおれが嵐を呼んだのだと悔いたあの日を思い出す。  暗い水溜まり。鉄錆と焦げた肉の臭い。身の内から沸く吐き気と、底知れぬふるえ、叩きつけた拳の痛み。  木戸を閉めて、木と黴と、焚かれた香木の匂いを閉じ込める。ここは本国ではない。おれが逃げてきた、海の向こうだ。  息を吐く。呼吸を、する。  ただ糸巻を織って、暮らしていけたらと望んでいたはずだった。おれはあの国を捨てて、一切振り返らず、もう関わらずに、ただ糸だけを手繰っていくのだと。  遠く離れたからあきらめたかと思えば、まったくそんなことはなかった。この国へ来て、むしろ思いは強くなるばかりだ。外へ出されたからこそ、知れたことがある。  雨が降る。  騒がしくて、ちっとも落ち着かない。  夕餉には魚が出された。天へ昇るという魚は、こんな雨の日にのぼるのだろうかと、ふと思った。  かれらは何を見て登るのだろう。おそらくは機がわかるのだろう。光が見えるのか、季節がわかるのか、それとも道が見えるのか。  龍になる道が、本能でわかるのかもしれない。  兆しを知る。  滝を登れ、雨をつかめ、天へ駆け上がれと、身の内からささやかれるように、導かれるのかも。  天眼の儀が迫るほど、天子は目に見えて憔悴していった。もうすべて暗記出来ているというのに、鬼気迫った様子で札をめくり、ぶつぶつと数をかぞえている。 「もう覚えただろうに、何がそんなに不安なんだ」  天子は目をさまよわせ、手のうちに視線を落とした。また少し肌が、明るくなった気がする。影の濃さがそう見せるのだろうか。 「神威ある天眼を持たぬのに、玉座について本当によいのだろうか」  神を騙すことになるのではないか、と天子はふるえていた。今更何をいうのかと思えば。 「統貴になりたいんじゃないのか」 「私は天眼なんだ。天子でなければいけないんだ。そうでなければ、この国は終えてしまう」  嫡子に天眼の生まれぬ世は乱れる。天眼が生まれながら、統貴にならなかった世も乱れる。天眼は統貴となってこそ、天眼なのだ。  そう、心底怯えたように涙声で語る天子に、おれは呆れた。  馬鹿馬鹿しい。  素直にそう思った。たかが瞳の色で、見えているもので、神だの、国だの。中身はただ人に過ぎないのに。  ただ、そう生まれついたというだけで。    ――ああ、本当に、どうにもならないことばかりだ。  誰にも、どうにもしてやれん、と叩かれた背の温かみを今、痛いほど思い出す。 「もし天眼を持つお前に光が見えないというなら、神がそう望んだんだろう。見えなくていい、と言った。それでいいじゃないか」  そんなこと、と天子は言葉をつまらせた。そして唇を噛み、おれを睨んだ。 「君は見えるからそう言えるんだ。ずるいよ」 「何がずるい。それを言うなら、お前は色が見えるなんてずるい」 「私は! 光がみたかった!」 「なら見ればいいだろう!」  天子が癇癪を起こしたように甲高く叫び、おれは怒鳴り返した。 「お前はおれの瞳を同じ色だと言った。おれにわからないものを、お前が見つけて、お前が与えた」  庭の橘を、木々の葉に埋もれてわからなかったまだ色づいていない実を、天子はもいでおれによこした。手のひらに乗せられて、そしてそこに爪を立てるまで、おれはその存在に気づきもしなかった。  その香りは甘酸っぱく、華やかに広がり、目の前を明るく色づかせるようだった。  これが橘だ。この色は十一、自由の色。どうだ、ふさわしい色だろう、華やかで、嬉しくなる。  秘密を明かすようにそう笑った天子を見たとき、おれはたしかに色を見た気がした。  それはあおだ。  おれにはわからないあお。  この国では草も、葉も、山も、空も、海もあおと呼ぶ。あれが、青だったのだろう。甘酸っぱく、華やかで、喜びに彩られたいろ。おれが焦がれた、色。  おれは光の数を教えた。それでお前は、王になれると思ったのに。 「お前はこれだけの道を整えられて、たったひとつの資質が足りないだけであきらめるのか。甘ったれるなよ」  低く呟いた言葉は、すべて自分自身に返ってくる。  瞳のいろがなんだ。東より来たる嵐の獣、それがなんだ。  おれは自由になりたかったんじゃない。人に、なりたかったんじゃない。  望みがあった。見ることすらあきらめていた光があった。 「自由という数はおれの国にはない。あるのは十と一を合わせた、ただの十一だ。十二だって十三だって関係ない。手に入らないものなんて、決められていない。全部手に入るんだ」 「それは、私の国では通じない」  天子は雨粒のように涙をぽろぽろこぼしながら、立ち上がったおれを見上げた。 「知るか。統貴にならないなら、全部捨てて魚になっちまえ」  外はまだ土砂降りだった。  それでもおれはしばらくの間ともに暮らした天子の宮を出て、客室として残されていた自分の部屋へ戻った。  天眼の儀の前に、国を出ることを決めた。  もし天子が天眼の儀を失したら今度こそ種馬かもしれん、と言うと従者は、それもいいんじゃないですかね、と血迷ったので蹴り飛ばして旅支度をさせた。 「まさか本当に嵐の目となってしまわれるとは……」 「うまいこといったつもりか?」 「でも天子さまのことはいいんですか? せっかく仲良くなられたのでは?」  教えられることは教えたし、言うことは言ったのだ。これ以上、おれにはどうしようもない。 「それに国を出るって、何処へ行くつもりなんです? 風任せの自由旅ってわけには、さすがにいきませんよ」 「たしかに自由は手に余るな」  首を傾げた従者に、十を超える数の話をしてやる。 「自由が十一とはまた、歯がゆいですね」 「ああ。だからお前の手を貸せ」  従者は目を丸くして、それから笑った。 「どうぞ、お使いください。あなたの手からこぼれおつすべてを、俺は受け止めてみせましょう」 「二十一は、まあ行儀は悪いが足を踏み出せば取れると思う」 「二十一って、なんなんです?」 「玉座」  神が治める、あの国らしい言葉だ。  龍紋の椅子に深く腰掛けて、おれは使者からの報告を受けた。  国統一の兆しなく、天眼は失われて久しい、娘をもらい受けたい、そんな馬鹿げた手紙が先日送られてきたので、遣わせた調査の報告だ。  案の定、統一の兆しもなにも王朝はもはや有名無実、小競り合いをするだけの豪華な鳥かごで、実際に治めているのは各地で任じられた将だ。民衆は将の政によってそこそこ平和に暮らしている。  おれが訪れた頃からあそこはそうだったのだ。今更新たに天眼の統貴が立っても、王制の復古などかなうわけがない。  寝言は寝て言え、というやつだ。 「本当に荒れていたらおれが治めてやるのもよいかと思ったのにな」 「そんな余裕がおありで?」 「ないなあ」  昔は暇に飽かせて糸巻をカラコロ織ったものを、あれから三寸も進んでいない。織りかけは埃をかぶったまま。それでも糸を外すのが癪で、いくら邪魔だと言われようとそのまま置いてある。 「久々の船旅は骨が折れましたよ。あっちについたら懐かしい豆と豆と根っこと草の食事で、でも歳をとったからですかね、ああいうのもいいですね。おかげでこっちに戻ってきてからすべてが脂っこく感じられます」 「昔もそうだっただろ」  何を年寄りぶっているのか。ヒヒ、と笑う顔は昔から変わらず、それでも皺もしみも増えた。たしかにいつの間にか、ずいぶん年は取った。 「そうそう、お土産です」  渡されたのは組紐より少し幅の広い織物だった。髪紐だろうか。なぜこんなものを、と思ったのは一瞬で、おれは受け取ったその布をまじまじと見つめた。 「髪紐ですが、糸巻織に似ているでしょう?」  久しく手に取っていないが、間違いない。  たしかに似ている、というよりそのものだ。  おれが織ったものは資金源にとすべて売り払ってしまったから、今は織りかけの一枚しか手元にない。売り払ったものは何処へ行ったのかなどわからず、だからこそ本当に久しぶりの手触りだった。  そしておれが織ったものにしては、新しすぎる。これは別人の手によるものだ。手触りも羊毛ではなく、おそらく絹か、麻だろう。 「南海の小さな島に補給で寄ったんですが、女たちが歌いながら糸車をカラカラ、コロコロ鳴らしてましてねえ。思わず懐かしくて、買ってしまいましたよ。いや、あるところにはあるもんですね、似たような工芸って」  そうかもしれない。似たものかもしれない、そう思いつつも、おれは唇を湿らせて問うた。 「どんな唄だ?」 「こどもの数え唄みたいなもんでしたね。おそらく糸巻の順番を唄であらわしているんでしょう、それにしてはちょっとふしぎな唄でしたけど」  耳に残ってしまったので、歌えますよ。そういって、彼はうたう。  雨音が聞こえる。木と黴と、潮と花の匂いがよみがえる。そして白く細い指がつまみ上げた、丸い果実。  唄は同じ節をくりかえし、そして最後に、こう締めくくられた。  ――空はたちばな、何ぞと問えば、龍に伝える数と答えよ
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