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「―――君の主張は理解しているつもりだ。しかしだね―――」
そんな丙氏の言葉を遮るように乙女史は話を続ける。
「実益は出ます。この研究成果をもって製品を量産化し、市場に出回ることによって実現可能です」
「まぁ、話は最後まで聞きたまえよ。そもそも、君は経済アナリストでもなければ、ベンチャー企業家でもない。今の発言内容は確かなマーケティングに基づいたエビデンスのあるものなのかね? 君は研究者としては非常に優秀だが、市場のニーズまで理解しているとは私には到底思えないのだよ」
「確かにおっしゃるとおりですが、人々は実益ばかりを求めているわけではありません。人生には豊かさも必要なのです」
乙女史も簡単には引き下がらない。
「人生の豊かさか―――。言いたいことはわかっているつもりだ。しかしだね。生きるためには喰わねばならない。そのためには何かを生み出す産業が、確かな成果を生み出すプロダクトが必要なのだよ。これを見たまえ。素晴らしい矢じりではないか。これは黒曜石を磨製して作成したものだ。それにこれだ。君にもこれが何かわかるね? そう、弓矢だよ。これのおかげで狩りの効率が著しく上がった。あの強靭なナウマンゾウですら簡単に仕留めることができるのだ。これが発明されるまではどうだ? 落とし穴を作ってそこまで誘導し、穴にゾウを落とす。それだけじゃない。這い上がろうとするゾウに対して投石したり、槍で刺したり。私の父は槍を刺すことに成功したが、それがためにゾウの怒りを買って、踏みつぶされてしまったよ。私がまだ11の頃だった」
丙氏は遠くを見つめて、深く嘆息する。
「君の研究が人生を豊かにする可能性のあるものだということはわかる。しかしだ。君も知ってのとおり、ここ最近は気温がめっきり下がって来た。このままでは冬に凍死者を多く出すことになりかねないのだ。だからこそ、今は実益が伴うものを開発しなくてはならない。そう言った意味で君の父上の発明した”火の起こし方”は画期的な発明だった。それまでは山火事などの時に火種を拾い、それを絶やさないように注意していた。そのために寝ずの番をして火に薪をくべる必要があったのだから。それをしなくても良いということが無駄な労働を減らし、燃料使用量を大幅に減らすことに繋がった。君にはそのような発明をしてもらいたいと思っている」
乙女史は丙氏が持っている弓に視線を送る。
弓はその弦を鳴らすと美しい音がなるのだ。
そして日の光りが当たる外の景色を見る。
小鳥が地を這う虫をついばみ、さえずっている。人も鳥のようにさえずることができるのではないかと思うのだ。
美しい音とさえずり。
これを実用化できれば、人は何か新しい価値を生み出すことになるような気がしてならなかった。
それだけではない。鳥の中にはその羽をはばたかせて異性にアピールするものもいる。これも何かに応用できないかと思うのである。
美しい音を鳴らし、それに合わせてさえずり、はばたく。
しかし、それが何の役に立つというのか? 今の我々が直面する問題を解決する手段として有効なものなのか? と言われると答えることができないのもまた事実。
この男にはもう何を言っても届かない気がする。
「―――わかりました。しかし、この研究を完全に中止するわけではありません。気温の急激な低下に対抗しうる発明ができたあかつきには再度、挑戦させていただきます」
その回答に丙氏は相好を崩す。
「そうか、そうか。わかってくれるか。やはり君はあの偉大な父上の娘だ。それに気温の低下も我々が考えているほど深刻ではないかもしれない。遠くない将来、君の研究が再開できる日がやってくるよ。それにしても君がその気になってくれて助かる。早速なんだが―――」
この後、地球は長い氷河期に突入し、人類がその精神性に豊さを求める余裕は一度潰えることになる。
人類史上類まれなる感性の持ち主であった彼女の研究が、楽器、歌、踊りという人類無類の友となり、言語を超越したオールマイティコミュケーションツールとして大成するのはもう少し時を待たなければならなかった。
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