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結ノ節
明静は都の京極にある自宅にもどった。
どこの寺にも住持していない在宅・・・だけど、出家僧である。捨てたのは社会的な身分だけ、隠居の状態。
藤原定家であった頃は、ここに住んでいることから『京極権中納言』とも呼ばれた。すべては過ぎた事だ。
離れの居室、板間に大の字となる。
ウメとクメが牛車から荷を降ろし、仕舞ってくれている。
蓮生の庵での事を『明月記』に書いておくか・・・考えるうちに、うとうとしていた。
「父上、お帰りでしたか」
息子の藤原為家が来た。まだ五十手前、働き盛りの顔だ。
「蓮生どのの庵で、襖を飾る障子歌を色紙に書いて置いてきた」
ははは、老いた父は息子に照れ笑い。
「どのような歌を?」
「これだよ」
明静は目録を出す。
「九十八首・・・・九十八? 半端な数です」
「そうでもないさ。仏陀の教え、四十八箇条の倍は・・・過去人の歌。それに、わしの歌と・・・」
「半端はいけません!」
「はい、そう・・・かもしれません」
老父は息子に押し切られる。
「切りよく、百首とすべきです。父上が撰ばぬなら、わたしが撰びます!」
ぐぐっ、拳で力説した。
九十九首目
人もをし 人も恨めし あぢきなく
世を思ふゆゑに 物思ふ身は
後鳥羽院(後鳥羽天皇)
「人を愛しみ、が、人を恨んでしまう・・・為政者の心の内を詠んでいます」
「後鳥羽院の歌が・・・」
明静は口に出かかった言葉を呑んだ。
便りは聞かぬが、後鳥羽院は流された隠岐で健在らしい。九十八首目で取り上げて良い歌であった。
十一首目の小野篁も、隠岐へ流された。が、彼は2年で許されて、都で重職を務めた。
後鳥羽院には機会が残されている・・・そう思いながら、すでに14年が過ぎていた。
「無視するように流したのは・・・自分の感情ゆえか。歌より人を見て、取り上げなかったのか・・・煩悩と言うか、業が消えておらんなあ」
これまでの撰歌を自省した。
百首目
ももしきや 古き軒場の しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり
順徳院(順徳天皇)
「都の伽藍を見て、それらが建てられた往事をしのぶ歌です」
「順徳院の歌を・・・」
順徳院も、承久の変では上皇側にいて敗者となった。佐渡へ流された。
都の北東、丑寅の門の向こう側へ追放された。生きて帰ってはならぬ、と暗示されている。鎌倉側からは、後鳥羽院よりも危険な人物と見なされたのだ。
「人ではなく、歌で撰ばなくては・・・な」
明静は息子の撰びに納得した。
「これにて百人一首の撰歌は完成です。早速、宇都宮どのの庵に届けてまいりましょう!」
どすどす、為家は板の廊下に足音を響かせて去る。
宮中では摺り足で歩けよ・・・老父は胸の中で忠告した。
以後、明静は出歩くことが減り、寝込むことが多くなった。
仁治2年8月20日(西暦1241年9月26日)、明静は静かに逝った。享年80歳であった。
蓮生は正元元年11月12日(西暦1259年12月26日)に逝く、享年82歳。彼の庵も、今は無い。ただ、京都市右京区の嵯峨二尊院門前に『中院山荘跡』として、ひっそり看板が立つばかりである。
時は流れ、江戸時代には木版印刷が普及した。小倉百人一首が人気となり、かるた遊びの題材となった。
今日、カルタと言えば小倉百人一首と言われるほどに。
< おわり >
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