第十二ノ節

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「昨日、熊とやり合って死んだ子が、野捨てになります。せめて、最期に経のひとつも上げたいと思います」 「いってらっしゃい」  蓮生は出かけて行った。  明静はひざに手をやり、縁側に腰掛ける。  荷車が出て行く。ムシロがかけられた遺体が載っていた。この時代、棺桶は普及していない。一般人なら、裸に剥かれて野に掘った穴へ捨てられる。  柱に背をもたれ、目を閉じた。 八十九首目  玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば  忍ぶことの 弱りもぞする        式子内親王 「わしも・・・あと何年あるやら」  長く生きて、先立つ多くを見送ってきた。その度、彼らと結んだ縁の緒が切れるのを感じた。 「この手に、あと何本の緒が残っているか・・・」  細くなった腕と一緒にながめた。 九十首目  見せばなや 雄島のあまの 袖だにも  ぬれにぞぬれし 色はかはらず        殷富門院大輔 「人の死を聞いても、見ても・・・めったに涙が出なくなった」  明静は自分の着物の袖を見る。 「若い頃なら、よく袖が湿っていたのに」  和歌において、着物の袖を濡らすのは涙。でも、現実には、ひたいの汗や鼻水や口の涎でも濡れる。強いくしゃみをしたら、鼻水と一緒に涙や唾が出るのは・・・よくあるけれど。  洗わずにいると、涙が染みた衣は色が変わってしまう。涙の中の塩分のせいだ。  室内に入り、ごろり手足を伸ばして寝た。 「そう言えば・・・さっきの荷車には、ムシロがかけられていた」  仲間の遺体にかける最低限の礼儀、と言えるだろう。行き倒れや罪人の死体なら、裸のまま山積みで運ばれる。  野捨てされ、彼は・・・今夜は一人で寝ることになる。 九十一首目  きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに  衣かたしき ひとりかも寝む        後京極摂政前太政大臣(藤原良経) 「ぬしさま・・・主さまっ!」  ウメに肩を揺すられ、明静は目を覚ました。少し眠っていたようだ。 「さっきから、ひくりとも動かなくて・・・心配しましたよ」 「そ、そうだったかな。いや、寝てる間のことは分からなくて」  わはは、笑って返した。  現代なら、睡眠時無呼吸症候群とも言う。神経や心臓が弱っている時に出やすい。体の中が酸欠状態になり、色々な病気の元になりえる。  
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