第一ノ節

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第一ノ節

 夕刻が近付き、女たちが土間で食事の支度していた。  男たちが厩から来た。武士たちからもらった小さな桶を抱えていた。  蓮生が見て喜ぶ。 「おお、味噌漬けの差し入れとは。これは・・・鹿肉か」 「これが・・・ミソ?」  明静は小首を傾げた。彼が知る味噌は、現代なら粒味噌と呼ばれるもの。  この時代、大陸から多くの人や物が渡って来た。『すり鉢』も渡って来た。  粒味噌をすり潰し、練り物状にして、現在にも伝わる味噌の形になった。味噌だれ、味噌漬け、味噌汁など、多様な味噌料理が鎌倉の武士たちに広がっていた。 「殺生した鹿を口にしようとは・・・あなたも見かけによらず、けっこうな破戒僧ですな」  明静の言い分に、蓮生は笑みを返す。 「春の鹿は、畑の新芽を喰います、冬には、樹の皮を喰います。鹿が増えると、森が枯れるとさえ言われます。むやみに殺生を禁じては、人の生活は成り立ちません。仏陀も兎を食べました。何事も中庸が大事です」 「鹿が森を枯らす・・・」  明静は言い返せない。 「寺によっては、鹿を飼って、熊除けに使う場合もあります。鹿も群れになれば、若い雄鹿は外敵に攻撃的です」 「熊は・・・鹿より危険かもしれません」  味噌漬けの鹿肉を湯に落とせば、鹿肉入りの味噌汁になった。  日々、人は破戒を積みながら生きる。大切なのは、破戒を認識できるか。小さな事、みんなやっている、と破戒を破戒と思わぬようになってはならぬ・・・自分に言い聞かせた。  暗くなり、明静は縁側に出た。  昼間の暑さは過ぎ、さわやかな風が吹いていた。川から、かすかに聞こえる水音が風雅だ。 「山か・・・」  右に小倉山、左に嵐山、稜線が見えた。西の空には、まだ明るさが残っている。  闇の中、虫やカエルが鳴いている。都の街中とは違う声で鳴いていた。 「歌は見立てだ。この山を何に見立てるか・・・」  この庵の主人、蓮生から歌の課題をもらった。眼前の風景に合う歌を撰ぼうとしていた。  キイイイーッ!  突然、けたたましい声が響いた。  中から、女従者のウメが出て来た。 「主様、今のは?」 「たぶん・・・鹿だ。尋常な声ではなかったな・・・熊と出くわした雄鹿が、群れに警告を出したか・・・な」  暗い山は、また静寂にもどっていた。  星が見えない・・・と思えば、夜空の低い位置に細い下弦の月がある。 「あの月、あたしは嫌いです。噛み付かれそう」 「月が噛み付く?」  中天にある月は青いが、地平に近付くと赤く染まる。今、月は下向きの赤い弧、血にまみれた獣の口に・・・見えるかもしれない。  袖を引かれ、明静は中に入った。
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