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お嫁さま
……それが、ちょうど一年前の今日のこと。
あれよあれよと芹香は屋敷へと招き入れられ、予想だにしていないほどの歓待を受けた。
上等な部屋を当てがわれ、上等な絹の着物や装飾品に加え毎日の食事も豪奢なもので、これまで貧しい暮らしを強いられてきた芹香は戸惑うばかり。
その日にわかったのは、屋敷に暮らしているのは出迎えてくれた二人と子狐一匹だけで、少年は世津、女性は葉奈、子狐は紫苑ということ。人間かと思った二人の頭には、三角形のふさふさな狐の耳が生えていて、御身替わりした霊狐に仕えている身なのだという。
さらに、村では霊狐の一族は妖狐と呼ばれて凶悪な妖として認識されていたが、それは大きな間違いだった。
彼らからは、歪んだ気など微塵も感じさせないどころか清廉で高貴な気しか感じない。聞けば霊狐の一族は妖などではなく、神に近い神聖なる存在だと葉奈から教えられた。
そしてその神聖なる存在の霊狐の嫁が芹香なのだと告げられたから驚きだ。
だが、肝心の霊狐の姿はどこにもなかった。
どこにいるのか、いつ会えるのかと聞いても二人とも言葉を濁すばかりで埒があかないため、芹香は途中から頭領のことは頭から消し去って、ここでの暮らしを満喫することに決めたのだった。
畑仕事をしたり、季節の手仕事をしたり。溌剌な世津と母のように穏やかで優しい葉奈と、芹香によく懐いてくれた子狐の紫苑との暮らしはこの上なく平和で幸せだった。
──ずっとここで暮らせたらどれほど幸せか。
そう思うのに、時間はかからなかった。そして、時を重ねるに連れて、その思いは強くなる一方で、自覚する度に芹香の心は暗く沈んでいく。
なぜなら、自分には彼らにこんな風によくしてもらう道理がないから。
自分は、彼らになに一つ返せていなければ、もてなしを受ける価値もない。そんな現状に甘んじていていいはずがなかった。
だから芹香は、聞いていた約束の一年だけと心に決めて日々を暮らしてきた。
そして明日で約束の一年が終わる今日、芹香はとうとう離縁を申し出たのだ。
祠に向かって叫んでも霊狐に届くかどうかなんてわからない。
だけど叫ばずにはいられなかった。
「霊狐さま! 今日でちょうどお約束の一年となります。 明日までにお姿をお見せ下さらないようでしたら、わたくし芹香は離縁させて頂きとうございます!」
「──それは困る」
突然降ってきた男性の声に、万感の思いで振り向いた芹香はきょとんと目を丸くする。
確かに後ろから聞こえてきたはずなのに、そこには見知った世津と葉奈、そして紫苑しかいない。
「い、今……声が、したわよね……?」
尋ねるが、二人は気まずそうに目くばせするだけで煮え切らない。
そんな二人の態度にも、芹香は腹の底から沸々と怒りのような熱を持った感情が沸いてくるのを感じた。
もう一年……、そう、もう一年だ。
子狐だった紫苑はいつの間にか芹香の背丈まで成長した。それだけの月日が流れたのだ。
なのに未だに姿を見せない霊狐にも、なに一つ教えてくれない二人にもやるせない思いで一杯だった。
ぐっと拳を握りしめた時、「ここだ」ともう一度声がした。
今度ははっきりと耳に届いた声を辿った先は──……
「紫苑……?」と芹香は目を瞬かせる。
そんな芹香を紫苑はまっすぐ見つめていた。その美しい顔をこちらに向けて。ゆらゆらと輝く琥珀色の瞳に吸い込まれそうになった時、紫苑の姿が消えた。
「えっ」
否、姿が変わったのだ。それも一瞬で。さっきまで狐の紫苑がいた場所には、世津と葉奈と同じ狐耳のついた人の姿の美青年がいた。白金の長髪と琥珀色の瞳は、紫苑のそれと全く同じで。
「えっ……し、紫苑? 人の姿になれたの……? それに言葉も……」
今聞かなくてはいけないことは、もっと別のことなのに、芹香の口からはそんなどうでもいい質問しか出てこない。
ま、まさか。
いや、まさかまさか、そんな……。
戸惑う芹香に数歩近づいた紫苑は、「俺が代替わりした霊狐だ。名乗りはしなかったが、ずっと芹香のそばにいた」だから離縁はできないと、とても真面目な顔で言い放った。
「紫苑が……霊狐さま……?」
あまりの衝撃に、芹香は眩暈がした。
あの日、鳥居をくぐった先で子狐の紫苑に出会ってこの方、ずっと一緒に過ごしてきたのだ。
──そう、寝所さえも共にしていた。
今日の朝も、紫苑のぬくもりを感じながら目を覚ました。そのぬくもりが今日で最後になるかもしれないと思い、昨夜は芹香から紫苑の体に腕を巻きつけて抱きしめるようにして眠った。
それだけじゃない。
暇さえあれば膝に乗ってくる子狐を撫で、毛づくろいをし、そして抱きしめた。そのふさふさの毛並みと温かさにどれほど癒されたか。徐々に大きくなってもそれは変わらなかった。
すり寄ってくれば受け入れ、抱きしめてふさふさの毛並みを撫でてやった。芹香が落ち込んでいる時には静かに隣にいて、手を伸ばせば嫌がらずに触らせてくれた。時には慰めるように、手を、そして顔をぺろりと舐められたこともある。
その凛とした美しい顔に、自分から頬を摺り寄せることもしばしばあった。
なのに、紫苑が自分と同じか、もしくは年上の異性で、さらに自分の伴侶である霊狐だったなんて──。
「な……なんて、こと……」
忘れるほどには時間の経っていない記憶の数々が脳裡を過ぎていき、込み上げる羞恥に耐えきれなくなった芹香は、いよいよその場に膝から頽れそうになった。
「芹香っ──」
それを紫苑が手を伸ばして己の胸に抱える。遠くなる意識の中、ふんわりと香った陽だまりの香りは狐だった紫苑のそれと全く同じで。
──あぁ、この青年が間違いなくあの紫苑なのだと、芹香は理解した。
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