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役目
翌朝、朝餉を済ませてようやく自室から出た芹香は、縁側に腰かけて空を見上げていた。
そうすれば、きっと紫苑が姿を現すだろうと思って。
「──座ったらどうですか、霊狐さま?」
案の定どこからともなく視界の端に映ったその人に、芹香は振り向かずに声をかけると、おずおずと近づいて芹香の隣に腰を下ろした。ひだまりの風がふわりとそよいだ。その馴染みのある香りは、落ち着くような胸を騒がせるような、なんとも言いがたい心地を芹香に与えた。
隣に座った青年を芹香は見上げる。惜しげもなく風に靡く白金の髪は、最高級の絹糸のように細く艶やかに輝いていてとても眩しい。少し上を向いた目尻は狐姿の時のキリっとした美しさを滲ませていて、どこからどう見てもあの狐の紫苑だと芹香は腹落ちする。
芹香の言葉を受けた紫苑は、ゆっくりとその琥珀色の瞳に芹香を映すと口を開いた。
「ずっと黙っていて、すまなかった」
紫苑の端正な顔が苦し気に歪む。
「代替わりしたばかりの霊狐は、先代から受け継いだ力が強すぎて姿が一時的に子どもに戻るんだが、その力を自身に馴染ませて元の姿に戻るためには、番である華狐の持つ強い霊力が必要なんだ」
「霊力……」
初耳ばかりの情報に頭が追い付かない。そもそも華狐にそんな役割や霊力なんてものがあることを、芹香はというより村の誰しも知らなかった。昔からの伝承がいかに当てにならないかがよくわかる。
「俺も例外なく子狐になり、華狐である芹香を迎えるにあたって、最初は一年だけ芹香の助けを借りて、力が安定したら芹香は村に帰そうと思っていた」
だから子狐が霊狐であることも、華狐の役割についても話さなかったのだと言った。世津と葉奈に口留めしたのもすべては自分の決めたことだから、彼らを責めないで欲しいとも。
芹香は、手元に視線を落とす紫苑の横顔をじっと見つめている。
「だけど、芹香のそばで過ごす日々は心地よくて、離れがたくなってしまった」
それは自分も同じだと、芹香は胸の裡でつぶやく。
「かと言って、どう切り出せばいいのかわからなくなって……、今更本当のことを言ったら芹香が呆れて帰ってしまうのではと、情けなくも今の今まで言い出せずにいたんだ」
紫苑の視線が、芹香に向けられる。
なにもかもを見通すような琥珀色をした瞳に見つめられて、芹香の胸は高鳴った。これまで毎日のように見てきた紫苑の瞳なのに、こんなに苦し気に揺れる瞳は知らない。
まるで、紫苑が自分にいなくなってほしくないと、そばにいて欲しいと言っているように聞こえて、芹香は着物の衿合わせに指先をひっかけるようにして胸元を握りしめた。
もう片方の手に、紫苑の手がそっと触れる。線は細いが大きな手は男性のそれで、芹香の身体がびくりと跳ねた。
紫苑は芹香の反応に一瞬身を固くしたが、そのまま芹香の手を取りまっすぐ見つめる。
中庭では、木々に止まった鳥たちのさえずりが響いて時折風が葉を揺らす音がするくらいで他に音はない。この場所で、狐の紫苑と過ごす穏やかな時間は芹香の大好きなひと時でもあった。それらの時間がつぎつぎと浮かんできて、触れる紫苑を拒めないでいた。
「どうか、俺のそばにいてほしい」
愛の告白のようにも取れる懇願に、体温が上がっていき顔が火照った。
しかし、
「霊狐の華狐として……、正式に俺と番になってほしい」
──霊狐の華狐として。
その言葉を聞いた瞬間、昇り詰めていた熱が瞬時に冷めていく。
紫苑は霊狐として華狐の力が必要だと言っているのだと、芹香は冷静に受け止める。
お前なんかいらないと言われなくてよかったと安堵しているのに、心の底に流れる冷たい空気はなんだろう。
考えてもわからない芹香は、見て見ぬふりをして蓋をした。
どうせ村に帰ったところで、自分を待ってくれている人も歓迎してくれる人もいないのだから、自分を必要としてくれる紫苑のそばにいたい。それはまぎれもない自分の願望だ。
芹香は、紫苑を見てゆっくりと頷く。
「わかりました。華狐としての役目を果たします」
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