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旅立つ君へ
どんどん運び出されていく清香の家具や私物たち。
本当に行ってしまうんだな…俺を置いて…。
清香が暮らしていた痕跡がどんどん消えていく。
清香、俺の前でいろんな顔を見せてくれた君。
玉ねぎが沁みると言って、涙を見せていたときもあったな。
酔っ払って帰ってきてそのまま倒れ込むように床で寝たこともあったのが今はとても懐かしい。あのとき俺は君をベッドまで運ぶこともブランケットを掛けてやることさえもできなかったのがとてももどかしかったんだ。
「おい、コンロ。何ひとりで感傷に浸ってるんだ?」
「俺は清香との思い出に耽っているんだ。邪魔しないでくれよ、靴箱。」
「コンロは清香のこと珍しく気に入ってたわよね。住人の退去でこれほど落ち込むなんてさ。」
「この学生マンションができて、俺たちもここに来て14年程経つが、今まで清香ほど俺たちを大切に扱ってくれた住人はいなかったよ…。そうだろ、シンク?」
「そうね。コンロなんて特に彼女が入居する前よりも今のほうがキレイになったんじゃない?使わずにキレイなんじゃなくて使い込んでキレイっていうのがすごいわよね。私もマメに掃除してもらってたお陰でピカピカよ!水滴跡のウロコすらないわよ!」
そうなのだ。自炊なんて全くしなくてキッチンを使わなくても、掃除をしてくれなければ自然と汚れていくのだ。
「僕も!」「私も!」とエアコンや洗面台、トイレ、風呂も口々に清香にピカピカにしてもらったことをアピールする。この部屋の設備たちはみんなマメでキレイ好きな清香が大好きだったのだ。
「壁紙も珍しく貼り替えられなくて済みそうだね。」
エアコンが言う。
「そうなんだー。彼女はタバコ吸わなかったし、それにちゃんと壁も拭いていってくれたから今回僕の寿命は長いんだ。一度タバコを吸う男の子が来たこともあったけど…まぁあのときだけだったしね。」
壁紙は言葉を濁した。
清香はバカみたいに優しくてお人好しで純粋だった。いや、バカみたいにじゃなくて、バカだった。
あの男のことをタキモト先輩とか呼んでいただろうか。清香はタキモト先輩に好意を寄せていたのだろう。タキモト先輩が「財布と鍵を一緒に落としたみたいで、今夜は野宿するしかない。助けてくれ。」なんて、困ったフリをしてこの部屋に上がり込んだ。鍵を落としてしまっては夜中に帰宅できないのは分かるが、財布がなくても今どきスマホ決済でネカフェでもカラオケでもどこでも一晩過ごせるだろうが!「頼ってくれて嬉しいです。」なんて微笑んでないで気付けよ、清香!本当にあのときは清香のバカさ加減に苛立ったものだ。
ワンナイトで捨てられて、後日、同級生の女の子たちに慰められながら泣く清香。君が優しくて純粋なだけでなく、タキモト先輩の件を糧に冷静に危機管理できるように成長してほしいとこの部屋の設備たちはみんな思ったことだろう。
とうとう引っ越し業者が清香の荷物をすべて運び出して行った。この部屋、こんなに広かったかな?
「清香の痕跡が消えてしまったぁぁぁ…。」
「コンロって本当は超粘着質なヤツだったんだな。」
「うるせー!玄関灯!」
「こら、コンロ!いつまでも清香のことを引きずるな!私たち設備は清香の新たな生活が順風満帆であることを祈るしかないのよ。私たちのことをこんなに大切にしてくれた清香だもの。引っ越し先でもきっと設備たちを大切にして、設備たちからも愛されるわ。」
シンクに宥められ、俺はこの部屋を旅立つ君の幸せを心から願った。社会人になってもどうかお元気で。
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