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引っ越し
「何かいいことないかな……」
職場でのお昼休み、気付くと私の口からそんな言葉が漏れていた。
「ちょっと何よ晴美、いきなり」
「ごめん、なんか、心の声が漏れた」
私は慌てて苦笑いする。
何一つ変わらない毎日。
変わらない通勤ラッシュ、変わらない仕事をこなし、いつものメンバーでお昼を食べ、また変わりのない仕事をする。
「何にも変わらないなって思っちゃって」
「まあ、気持ちはわかるけどね」
「あ、だったらさ、晴美、引っ越しとかしてみれば?」
「引っ越し?」
「そう、何も変わらないって言うなら自分で変えなきゃ。手っ取り早いのは引っ越しだと思うよ」
「確かに、引っ越せば通勤路線も変わるしね」
「何か出会いがあったりして?」
「きゃあ~、出会っちゃう?」
勝手に盛り上がる仲間たち。
(引っ越し、か)
引っ越すことなんて今まで考えもしなかった。
住み慣れたアパートだし、騒音や不便なところも何もないから当然と言えばそうなのだろうが。
「ただいま……」
返事はないのに、つい口に出してしまうただいまを言った後、私は部屋の灯りをつけた。
学生の頃から住み始めたから、もう八年近くになるのか。
引っ越しを考えるのならば、この増えてしまった荷物たちを片付けなければならない。
掃除はこまめにやっているが、増えてゆく物を整理してこなかった。
衣類は増える一方で、今となっては着ない服が山ほどある。
ちょうど大型連休ということもあって、私は引っ越しを視野に、部屋の片付けをしようと決めた。
まず、今はもう閉まることのなくなったクローゼットから服を全て取り出した。
最近着ている服だけを残し、学生の頃のミニスカートや派手なコートなどをゴミ袋に詰めていった。
なぜか男性用のTシャツや下着も顔を出した。
きっと昔の元彼たちの忘れ物だろう。
過去には何人か男を連れ込んだ。
そう言えば、最近は恋すらしていない、な。
余裕までできたクローゼットの扉を閉めると、部屋が急に広くなった気がした。
味を占めた私はその勢いのまま、狭いリビングの模様替えをした。
テーブルとソファー、テレビの位置を変えるだけでも雰囲気はガラリと変わった。
まるで引っ越しでもしたかのような新鮮な気分になっていた。
気分が変わると、何かいつもと違うことがやりたくなった。
いつもなら五分も浸かっていられない湯船にスマホを持ち込み、音楽を聴きながらゆっくり二十分は浸かった。
いつも着ているくたくたのスウェットは捨て、買ったまま袖を通していなかった新しいスウェットをおろした。
一人ではお酒なんて飲まないのに、ずっと冷蔵庫に入ったままの缶酎ハイを取り出し飲んだ。
そうやっていつもと違うことをするだけで、まるで自分が生まれ変わったような気がしてきた。
お風呂上がりのアルコールのせいか、少し体がふわふわしているのも気持ちよかった。
何か食料をと思い、近所のコンビニに行って適当なつまみとお菓子と、ついでに缶ビールや缶酎ハイも買い足した。
アパートに戻り、自分の部屋の階でエレベーターを降りた時だった。
「わ……」
私の部屋のインターフォンを押している男の人がいた。
声を出してしまった私に気付き、振り向いた男の人。
セールスマンにしてはラフな格好だと思ったのは一瞬で、その男の人の顔の良さに私の心臓は一気に加速し始めた。
「あ、えっと、隣に引っ越してきて、挨拶しようと思いまして……」
「あ、あ、ああ、隣に?」
「はい、一ノ瀬です。よろしくお願いいたします」
「あ、高柳晴美です。わざわざどうも、よろしくお願いします」
お互いに頭を下げてから、それぞれの部屋のドアを開けて中に入った。
まだ胸がドキドキしていた。
「うわぁ」
今さらだが、ノーメイクの顔とスウェット姿の自分が恥ずかしかった。
でもあの、くたくたのスウェットじゃなくてまだよかった、と思った。
「どう晴美、引っ越しすること考えてみた?」
「うーん」
連休明けの、いつもと変わらないお昼休み。
「引っ越しはやめた」
「そっか、まあそうだよね。お金もかかるし何かと面倒くさいしね」
「そう? 私はすぐ飽きちゃうからな。できればもう引っ越したいわ」
「あんた、この前引っ越したばっかりじゃん」
「あはっ」
いつもと変わらない毎日。
なのに私の心は、ついこの間みたいにつまらないとは感じていなかった。
あれから、いつお隣さんと会ってもいいように、近所のコンビニでさえも外に出る時はちゃんとメイクをするようにしている。
スウェットもちゃんと着替える。
ただそれだけのことなのに、心がウキウキするのはなぜだろう。
べつに好きとか恋とかではない。
見られて恥ずかしくないようにしているだけ、人目を気にするようになっただけなのだ。
変わらない毎日がつまらないと思うのなら、自分で何かを変えるしかない。
引っ越しは確かに手っ取り早いのかもしれないが、お金や労力も使う。
もっと気軽に、身近で簡単なところから、変えられることは山ほどあったのだ。
お隣さんが引っ越してきてくれたから、それに気付くことができた。
「でもさ」
「なによ、晴美」
「でも、引っ越しって、いいよね」
私はそう言って笑ってみせた。
完
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