私はアイドル

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 その日は朝から緊張していた。    私はいちおうひとりでアイドル歌手というのをやっている。今の時代、アイドルで活躍できるなんて難しいのはわかっている。でも私はアイドルが大好きだ。小さい頃からずっとアイドルになりたいと思って頑張っていた。  ただ私の思うアイドルはちょっと違っていた。聖子ちゃんなんかとは違って、歌も踊りも下手くそな、でも一生懸命頑張っているアイドルが好きだった。  そんな私が、お客さんの前で歌うテレビの歌番組に出演することになったのだ。しかも失敗は許されない生放送だった。  もちろん私なんか小さな扱いで、番組の最初に簡単に紹介されて歌って終わるだけだ。それでも嬉しかった。  本番が始まる。  MCの後、曲が流れ歌い始める。  いや、正確に言うと流れる歌に合わせて口を動かし始めるのだ。  そう、口パクだ。私など地声で歌うことは許されない。でも私はこれもアイドルの王道だと思っている。口パクでもいい、ダンスが下手でもいい、一生懸命やることが大事だと思っている。  トラブルが起こったのは1番のフレーズが終わる頃だった。  流れていた歌声が消えてしまった。  メロディは流れているが、なぜかしら歌声だけ出なくなったようだ。  これは大変なことになった。  まだ2番がある。  どうしようと思い袖にいるスタッフに目をやると、自分で歌えという仕草をしている。  無理だ。  もちろん歌詞は覚えている。  しかしお客さんを前にした生放送で私の歌声が流れてしまったらどうなるだろう。  でももう諦めるしかなかった。  間奏が終わり2番のフレーズが始まる。  私は仕方なく地声で歌った。  思ったとおりだ。  それまで形だけでも盛り上がってくれていた客席が静まりかえった。  カメラマンさんも凍りついたような顔をしている。  終わった。  なんとか最後まで歌いきったが、これで私のアイドル人生は終わってしまっただろう。  田舎に帰ろう、そう思いながらマネージャーさんも振り切って私はひとりホテルへ帰った。  眠れぬままぼんやりしていると、翌朝マネージャーさんから電話があった。大変なことになった、と言われた。やっぱりか。私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。 「すいませんでした…お詫びして田舎に帰ります」 「いや、それが…番組のプロデューサーが絶賛してるんだ。また出て欲しいって。今度は生歌で」  私は最初なんなのことだかわからなかった。  他に出演していた歌手の皆さんもみんな褒めてくれたらしい。客席が静まりかえったのは感動してくれてのことだったのは後でわかった。  私は今まで自分の歌声がいいと思ったことなど一度もなかった。ただあの瞬間、トラブルが起こった瞬間、何かが私を変えたのかもしれない。  その出来事があって私の人生は変わった。  天使の歌声を持つアイドルとして全国に知れ渡るようになった。今後は海外に進出することも計画されている。  でも私はふと懐かしく思うことがある。  あの口パクながら可愛く精一杯アイドルしていた頃の自分を。  あの頃に戻りたい。  でももうそれは無理なことだ。  今日も私の歌声をたくさんの人が待ってくれているのだから。               THE END
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