3人が本棚に入れています
本棚に追加
──はじめは、喉の奥に強い痛みを感じた。粘膜を焼く熱さは酒のそれにあらず毒を飲んだ時のもの、せり上がる吐き気と共に片手で口元を押さえると指の隙間から苦味を孕んだ酒精がぼたぼたと溢れた。舌に乗る不快感に耐えかねて膝を折り座り込むと無垢なまなこが俺を覗き込んでくる。
「なあ、苦しい?」
この男は何を言っているんだ、と──毒づきにも似た思いを込めて煌めく瞳を睨め付ければ、両の目がやんわりと細められる。長い睫毛に縁取られた眼は吸い込まれそうなほどに澄んでいるのに、反面、どこまでも堕ちていきそうな暗さを帯びている。かんばせは人形のように整っているのにも関わらずそこに人間じみた煩雑さは無い。ひたすらに、つめたい。
「……声、出ないよなぁ。可哀想に」
鼻腔を突く匂いには酒の香りに混ざって微かな錆くささがある。直感で「喉を潰された」と悟り、俺は男の胸ぐらを掴んだ。──なぜ、なぜ。このような真似をした。俺が歌うことを愛しているのを誰よりも知っているお前が、なぜ、なぜ。昂る感情は留まるところを知らず、俺は男の横っ面を平手で張った。
乾いた音が、静かな部屋のなかに響く。
頬を打たれた男は怒るでもなく瞬き、首を傾げてから不思議そうに俺を見つめる。そのまなこの無機質さに再度激昂するよりも不気味さが勝ったのでふたたび振り上げた手を止めれば、男は心の底から掬い上げた疑問を口にする。
「もう歌うのは疲れた、って言ってただろ」
「なのになんでそんなに怒ってるんだ?」
「──……っ」
男の口から発された疑問が汚泥のかたちをもって俺へと絡みつく心地を憶えた。穢らわしいそれを払いのけようとも、無機質な声音のくせ明らかに意志を帯びたその言葉は俺の四肢を這い回り、頬を撫で、喉の奥へとゆっくりと入り込む。気道を塞がれる錯覚を感じて意識して呼吸を深めた。
「──……」
──今すぐここから出て行け。その一文を浮かべて扉を指し示せば、男は首を左右に振った。
「──……!!」
奥歯を軋らせ、もう一度扉を指差す。しかしながら男は俺を見つめたまま動かない。それどころか頬に触れようとしてきた。手を撥ね付けるべく指先に力を込めれば、男は小さく口を開いた。
「──俺の気持ちが独りよがりで、お前のことを名実ともに傷付けたのは分かってる。
……ただ、ただ。今は待っていてほしい。俺はお前にもう一度笑ってほしいだけなんだ。お前の声を潰したのもそれを叶えるために必要なことなんだ」
いったいどの口がそんなことを言っているのだろうか。偽善にまみれた醜悪さに対し煮え滾る怒りを飲み下すと、男はまたひとつ瞬いた。
「──歌うことは神に捧ぐ事例もあるくらいには尊く、美しくて、何ものにも代えがたい至福だ。街を歩けばそこかしこで歌が聞こえ、人々は笑い合い、幸せを分かち合う。それはこれからも永劫変わらないんだろう。
でも、歌うことで心を砕かれる人が裏側に居るとしたらどうだ。いつまでも声や電子の波に乗って誰かの元に届くことがなく、次第に自分自身の声すらも聞こえなくなって、光の灯らない海に放り出される人が居るとすれば、その事実は『必要なこと』として昇華されてしまうのか?
人の心を砕くことを『必要なこと』として昇華してしまうくらいなら、この世に歌なんて必要ない。苦しむ人間が居る事実を分かっていながら賛美の歌を歌うことも、聞くことも、俺には出来ない。
歌うことは人の心を救うが、人の心に巣食う澱みも生み出す。──なぁ、恭弥」
男──光陽は、恭弥に向けて静かに問うた。
「お前を、誰かを、傷つけてまで聴く歌で──、
──本当に世の中の人は幸せになれるのか?
俺は『歌』は『詩の可能性、旋律の可能性が欠けることのないもの』と思っている。『完璧な歌』を世の中のひとびとに届けるためには『ふたつの可能性が欠けることがない』のが第一だ。
世に溢れた歌は全て誰かの可能性を取り潰したうえで成り立ってる。そんなものは歌じゃない。俺の愛する歌じゃない。
──例えば無限の可能性を謳う歌が誰かの可能性の犠牲の上に成り立っているとしたら、その歌には信憑性も何も無くなってしまうだろ?」
無茶苦茶だ。暴論にも程がある、──とは言い切れなかった。『心に響く歌は自分の矜持から作られるものだ』とは恭弥も実際に思ったことがある。胃の腑が鉛を詰め込まれたように重くなるのを感じた。吐き出そうにもその重みは恭弥を苛み、視線は力無く下を向く。
光陽は、両手を広げて静かに宣言した。
子供のような無邪気さと、慈愛と、冷酷さをもって。
「──俺は何年かかっても、
この世から歌を根絶する。
全部をゼロに戻して、もう一度また組み立てよう。歌を愛するひとびとが一人残らず幸せになれるように。
お前の喉が癒える頃には、
誰も苦しむことのない歌を、みんなで歌おう」
最初のコメントを投稿しよう!